numbnessandsuprise

email me your comments to yusukedate@hotmail.com

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

谷川俊太郎さん①

もこもこ


谷川俊太郎氏の本で、「もこ もこもこ」という本がある。
これは幼児向けに作られた30ページ程度の短い絵本である。

「もこ」「にょき」「ぽろり」「しーん」「ぱちん」「つーん」
絵本のなかにでてくる言葉たちはこういった擬音語のみで、
絵それ自体はカラフルな抽象画でつかみどころがない。

大人たちはきっと戸惑うだろう。
この本をどう楽しんだらよいのだろうか・・・
これはいったいなにを意味しているんだ・・・

大人になるとかたくなる。
ナンセンスなしろものは怖くなるのだろうか。

この本は、出版当時じつはあまり売れなかった。
少したったころ、こどもたち(幼稚園)の間で自然と
人気がではじめ、数年後に再び売れ出したという。
こういう感覚的で意味不明な絵や音に
子供たちが心惹かれるのはなぜだろう。

谷川俊太郎氏は、ある講演の中で、
こういったある種のナンセンスな表現を、
「人生の手触りである」
と話していた。

ユーモアとでもいうのだろうか、
そういう排除されてしまいがちな
バカバカしいことや、無意味なことを
「人生の手触り」といわれて、
僕はなんだかとても腑に落ちたのである。
人生の大切なエッセンスのひとつであるとおもう。

まさに子供たちはこの
人生の手触りを
存分に楽しんでいる存在だと思う。
例えばおはしとおはしがなる音をおもしろがり、
パーカーのチャックの感触を飽きずにいじくり、
つくえのはしっこをがぶりとひとくち。
おなじことをずっとやってる。

生きていることが
本来発見にあふれ
毎日の景色も会話も
驚きに満ち満ちているのだとしたら
大人のみるものの中にも
無数の発見があるんだよと、
こどもたちから言われてるような気がした。

この絵本では「しーん」とした平地から
「にょき」とたんこぶみたいなものがあらわれる。
僕はそのたんこぶを考える。
太陽がのぼるときのような、
生命が誕生するときのような、
アイディアがうかんだときのような。

こどもたちにはなんだってよいのである。
「にょき」とでたページをめくった瞬間に、
はじけるような笑顔になって、
それだけでもう大喜びなのだから。











スポンサーサイト

PageTop

金魚

IMG_0976_convert_20100421234609.jpg IMG_0915_convert_20100421235926.jpg



保育園の窓側に、金魚の水槽がおいてあった。
去年の夏まつりで先生達がとってきたのが始まりで、
月日が経つうちに金魚はどんどん増えていって、
最後には30匹ぐらいになった。

いつからだろうか、
しらないうちに金魚の飼育係になってしまった。
これが祭りや餌用の金魚だから
案外にパタパタと死んでしまって、
死骸を埋めるのが一苦労だった。

死骸はすぐ近くの歩道沿いの土に、
こどもたち数人と一緒に埋めにいくのが、
いつからかきまりになった。

2歳の子、3歳の子、4歳の子。
みんなそとに出れるだけで嬉しいから
死骸を埋めにきたことを忘れてしまうこもいる。
そのなかでも何人かの子は、
誰にいわれるでもなく、
葉や枝を拾ってきてお墓に飾りつけをはじめる。
そこには既にたくさんの金魚が埋めてあるから、
どの金魚かわかるようにするためらしい。
ちいさな死骸が土のなかに埋められるのも
しっかりみつめながら、
「さようなら」といってまたげんきにもどっていく。

新宿に住む子供たちは
本物のいきものをみたり、さわったりすることが
ほんとうにすくないと思う。
人ごみとコンクリートの世界で
こどもたちは本当は何を感じていきているのだろう。

死んだいきものを触って、なにかを思ったり
つくられたものでない、大きな自然のなかの、
土のやわらかさや風のかおり、遮るもののない陽の光を、
本当は毎日浴びてほしい。

そんなことをよく思ったけれど、
でもこどもたちはすでになんでもしっているとおもう。
こどもたちが教えてくれたこと、
こどもたちは実は、自然に一番ちかい存在。

ちかくにあるぬいぐるみやおもちゃに命を見出し、
草花や自然そのすべてに
人間とおなじように命や気持ちが宿っているということを
知っているんだなと思った。















PageTop

islaNd of gOd




今日は一日中強い風が吹いておりました。今日の風は強く紫色で、窓なんか開けていたら靴もポスターも小さな置物もなにもかもがふき飛んで行ってしまいそうなくらいに荒々しく、だけれどもその風が時折風向きを変えると、6畳一間の小さな部屋を見事につきぬける通り風となって、蒸し暑くじめじめした日中をいくらかでもまともにしてくれるのです。普段とまっているものが風によって動いて、動くことで全く違うものに見えたりすると、目の前に広がるなんでもない風景に生命が注がれたようで、なんとも嬉しく、その一瞬のそれだけで不思議な懐かしい気持ちにさせられるのであります。ときおり愛らしいカタチとなってそれは僕達の目の前に現れて、不自然に静かな昼さがりの時間を、弱々しくもかすかに照らすのです。夏という季節の、最もよいところは気持ちが解放されることです。なぜ解放されるかというと空が解放されるからです。風景が、空が近くなってなんだか飛び跳ねたいような心象へと変化してゆきます。強い風がふく日の夕方には、大きな空のある一部分に巨大な雲の列ができあがって、おどろくほどの色彩を放ち、僕達はこりずにその風景に圧倒されるのでした。夏の夜は孤独の種類もいつものそれと一線を画します。孤独には変わりないのだけれども、なんというか包まれている孤独とでもいうような、静かな佇まいです。夏はまた音楽の響きがよくなります。音楽は言葉をこえたその外側にあるものです。手にとれない語れないものです。目に見えないけれども確かに存在して確かに感じるものです。それは理由もなく意味すらももたない唯一つのものです。百鬼夜行、彼彼女の前でいとも簡単にカタチをかえるゴーストです。琴線にふれるとはこのことです。いずれ表現されるであろう最後の音楽は、今この時に既に誰かの右手の中にあって、少し暖かく小さなふくらみをもって、人々の手に届くのをまっているのです。そうか・・僕達はもともと音を通して世界を見ているんだな。音を介さなければ本当の世界は見えないのだ、と浮かんでなんだか嬉しい気持ちなります。音を奏で、奏で続けてそれを超えて初めて自分が何者であったのか、どこへ向かおうとしているのかがわかるような気がするのです。そう、7月のもう終わりの、朝6時の朝焼けと窓から通り抜ける風がなんとも形容しがたい心地よさで、ひゅるりと満ち満ちた肉体をさわり、またカラスの見える景色へと消えては溶け込み溶けては消えて、空色の大きな円を描いてその姿をくらましたっ。さらさらと葉は鳴きがらがらと道路の音はなり、さあ君よ、今日も明日のために歩こうと急かすのであった。それはもう背中から強く強く(少し嫉妬を含みながら)、希望に満ち満ちたドラム音を掻き毟る様に奏でながら、「彼」という有機体を必然的に動かすのであった。度々訪れるその感覚を、それでも彼はいやになることはなかった。不思議と流れる(意思を含んだ)運命に翻弄されながらも!強い強い一つの芯をもち、揺るがずたゆまずちびちびと(たまに涙は流れるのであるが)。どうにかこうにかして自分の「生活」を積み上げているのであった。幻覚のこの光景は、その姿を日々変化させて往々にして眼前とたちはだかるのであった。きがつくとただただその見たことも、これから見ることもないであろう一つの「嘘(又は逃避!臆病者!我儘者!空想!)」に圧倒され、10年程前から何一つ見る景色はかわっていないのであった。それでもどこかに近づいていると思いたかったのだ。深深深とした夜夜夜。シンシンシン。日本が眠りにつく頃にようやく君には今日始めての笑顔が生まれる。不機嫌な眉毛をひくひくとさせながら、とても居心地が悪そうですな。なぜ君はイライラするの。なぜ複雑にしてしまうの。近くにいる人をみると、案外簡単なことだったりするようなのです。色々な事は。すべての事は。ただ諦めというのもある程度は必要のようです(ここでいう諦めというのは、自覚という意味です。君にとって何が好ましく、何が好ましくないのかということです)。ギラギラギラギラ。サンサンサンサンとした太陽。夏は開放です。夏の匂ひが否応なしに飛び込んでくるのでそれで梅雨が明けたのを感じます。景色も開放されて地球が縦横にぎゅんとのびて、どこにいてもどこにでもいけそうなくらいカラダが軽くなるのを感じるのです。夏は水分の流れがいっそう活発になるので、ぴちゃぴちゃとした川の流れやスルスルとした時の流れが澄んだ生命の輝きを持ち始めます。だから夏は子供の季節です。ひまわりと同じくらい高貴で穏やかな笑顔を満面に浮かべて、これでもかと世界を走り回ります。泥だらけで鼻水をたらし、草原を掻き分けどこまでもどこまでも進んでいくのです。そしてそういう季節を敏感に、でも大胆に感じながら全身を使って反応するのです。風をあつめて、無限に飛び跳ねながら、有限の自分自身を放つのです。そのときはもうほとんどソラと一つになっているのです。一番大きな雲を右手の中につかんでどうしようもないくらい飛びたい気持ちを全身から解き放つのです。子供達はそこでは既に地球の一部です。そして世界に音が溢れている。聞くものによって七変化する「みゅーじっく」がとめどもなく流れている。皆自分を代弁してくれるものを探すのだ。そのほうが自分で作るより手っ取り早いからだ。それだけだ。複雑微妙なこの僕等が曖昧なのだから、何をしても確信というものは得る事ができないのだ。「そう、いつかはそれは君の手元から消えてなくなってしまうのだよ。だからいつまでもそこにあるものだなんて思っていてはだめなのだよ。」「ええ、わかっているわ。あなたもわたしも共に流れていつかはここにたっていたことも忘れてしまうくらいに、簡単に風になって星屑へと変わっていくのだわ。」「そうだ。それだけなのだ。ただ僕等にはそういう事実がまっているだけなのだ。曖昧な世界の唯一つの確かな事実なのだ。」黒い糸の螺旋が胸のちょうど真ん中でうねってよじれる。それをなんとかときほぐそうとするのだけれど、どうしても途中で堪忍ならんくなる。それはなんなのであろうか、孤独であろうか、創作であろうか、会話であろうか、無関心であろうか、猿芝居であろうか、悶々とした欲望であろうか、自ら選ぶ事をやめた運命であろうか。悪しからずそれを知っているのはこのからだだけなのであろう。そうに違いないのだ。

22歳の夏に一人訪れた沖縄の小さな離島、渡名喜(となき)島。今日その島の風景がテレビから流れていた。年に1度行われる島の水中大会の様子が放送されていて、偶然それを目にした途端に僕は、一瞬にして3年前のあの夏にタイムスリップした。きっかけはなりゆきだ。沖縄本島にある一泊980円の小さな民宿に泊まることになった僕は、そこである一人の男と出会った。29歳の福岡出身、自称米屋のせがれの吉田くん。横長の小さな和室に、2段ベットが5列に並んだ10人部屋の、僕の下に寝ていたその人は、実家を継ぐのかどうかで父親と大喧嘩をしてそのまま家を飛び出し、行く先も決めずぶらりぶらりと放浪の旅をしているのだといっていた。彼は大酒のみの女ったらしで、一緒に街を歩くと手当たり次第に声をかけては罵声を浴びせられていたのを思い出す。不思議な人であった。背がひょろりと高くて肩幅が広く、ぼそぼそと喋る。九州男児の彫り深い顔を惜しみなくつきだし、また短く刈り上げた後頭部がやけに印象的であった。どんちゃん騒ぎが大の得意で、すぐに大口を嘯くご陽気ものだったけれども、たまに見せるしずんだ顔がなんともあどけなく、いいがたい哀愁をさらすものだから、周りにいた人間はよく調子を狂わされたものであった。彼は出会ったその日にこう言った。

「神の島にいかないかい?」

渡名喜島。那覇市から北西に約60km、久米島と栗国島のほぼ中間に位置する有人の島。面積3.74km、総人口478人。渡名喜島はまさに「神の島」という風情と佇まいを持って、ボクらを出迎えた。最小限の情報と文明だけを抱えて、堂々とした風景を見せつけてきた。島に信号機は一つだけ。食料も週に一度フェリーで運ばれてくるという状況であったので、煙草一つ買うのも大変な苦労であった。小さな、何もない島だと聞かされていたが、全くそんなことはなかった。実際に島に降り立つと海辺のすぐ横にはいくつもの山々が立ちはだかっていて、それが幻想的な陰を作り出している。音が溢れている。光と陰が交錯している。全体がひとつの流れとなって動いているかのよう。緑色がキラキラした陽の光に照らされて映える。木漏れ日が浜辺に打ち上げられた壊れた小舟を揺らしている。セミの鳴き声も太くて大きい気がした。大自然とは遠くから眺める、もしくは展示品を見るように傍観する、のが常であるが、ここは違う。もうずっと自然が肌に触れているような、頭のすぐ上から降り注いできそうな山の森が、静寂のままそこにあった。島一周は歩いても2時間から3時間程度だと吉田くんは言った。けれど僕らは歩かなかった。僕らを躊躇させたのは目の前の山々に覆われた島の反対側だった。向こう側の空には深い灰色の雨雲が覆っていて、龍が天空からおりてきて島の向こう側へ舞い降りてきそうな空。島の見えない部分に僕らは理由のない恐怖を感じた。 なんだか歩き出したら二度と戻ってはこられないような気がした。離島にいるときは、大地の上にたっているという感覚を鋭敏に感じざるおえなかった。それはむき出しにされている森林やどこまでも続く白く光る砂の道、流れる風の荒々しさや生々しい夏の匂いに、本来僕らという生命が共鳴して嬉しがっているかのようだった。大地が大きく呼吸するのを足の裏で感じる、そんな風だった。季節は確か7月の終わりごろだったと思う。島に着いたその日が偶然にも1年に一度開かれる「渡名喜まつり」であった。総人口478人が浜辺に一斉に集い、出店を飾る提灯をつけてまわり、ステージの照明のあかるさを暗くしたり明るくしたりし、少し遠くの対岸にある石組みの上では、花火師らしき男達が数名、花火の準備をしていた。島にあるほとんどの食糧をもってきたのではないかと思うぐらいにあたり一面は食糧に溢れ、会場はこじんまりとして小さく、村民が1部分に密集しているせいかその一体の空間がとても豪華に見えた。ところどころではもう泡盛をたらふく食らった中年の男達が阿波踊りをはじめ、意気揚々とそれにまざる幼い子供達は砂ほこりを上げてめちゃくちゃな動きをしている。汗だくになりながらも一向にへこたれないしわしわのおばあ達。なんなんだこのエネルギーは。ヴァイタリティとかいう生やさしいものではなかった。島のエネルギーを吸い取って自らのからだを媒介して力を放出しているような踊りだった。神々しい。長い時間村民は踊り続けた。島の民家をまわりながら、ときたま道路の上にたちどまっては踊り、人の家にはいっては踊り、まさに狂喜乱舞一心不乱とはこのことだ。徐々に顔の形相もけわしくなり、島のエネルギーをもらってなんとか踊り続けているようであった。時計は夜中の3時をさしていた・・・。世界はそれぞれの場所でそれぞれの様相を見せつつも、奥底では共通する意思をもった巨大な一つの生命体である。大地から生まれしエネルギーと太陽からふる無限の慈しみの光が降り注ぐ奇跡の惑星である。そしてそれに連なる生命の連鎖の線上にたつ僕達人間も、その風土と文化の中でそれぞれの意志を持ち各々の矛盾と疑問を抱えながら相対するものへの挑戦を続けているのだ。村民達がもつ最大の感受性は、「永遠なるもの」に対しての畏敬の念だ。最大の疑問にしてそれは一人の人間として避けることのできないモチベーションである。誰人も例外はあるまい。奇跡の惑星とリンクするその踊りは、呼応する空と吹き荒れるざぁざぁ雨に響いて、今も耳朶から離れることはない。



















































PageTop

live

kualauk mute geek vol9に出演します。
今回はボアダムスの山本精一さんを迎えてのactです。

http://www.kualauk.net/

kmg9fly.jpg

【Kuala Mute Geek Vol.9】
2007.2.12(Mon) open:15:00 close:20:30
andZONE (新宿) http://www.andzone.com/

【Artist】
・Philip Samartzis + 山本精一
・Christophe Charles + 鈴木ヒラク(visual)
・ou
・畠山地平
・Opitope
・Clock(tomoyoshi date,yusuke date, asuna, chib)

【charge】
advance¥2,300 door¥3,000  予約kualauk@hotmail.co.jp
■ 企画・制作 : KUALAUK TABLE


3月には長野の松本でのライブも予定しています。
詳細は後日。



取り急ぎ。















PageTop

oh-





it has been a long time.ご無沙汰しております。もう完全に月数回の更新になってしまっている。なぜこんなにも更新を怠っているのかというと、勿論就労時間の問題もあるのだけれど、ネット代金が聊か滞ってしまい、数週間とめられているのですと、お陰で近頃は大変不便な思いをしている。

いや、しかしこの日記もなんだかんだで1年4ヶ月目に突入、更新率は日に日に落ちているものの、継続は力・・なんとかとはいうもので、続ける事は何に対しても大切だ。でもこんないわゆるブロガーといわれる人々は今年3月の時点で800万を超えたとか超えないとか。昔はパソコンなんてものはフリーセルをやる為だけにある機械だと思っていたのに、ここまで一般的なものになるとは夢にも思わなんだ。効率的に連絡がとれて、何につけても大変便利なもので、大変に面白く奥が深い。だからこそ使い方をマスターすれば、とても良いライフツールになるのだ。いわゆる自分の意見とか主張とかをただ垂れ流していた時代から、ミクシィのようなSNSといわれるコミュニティーサイトが形成されはじめて、伝えたい事を伝えたい人に的確に伝えられるようになってきた。インターネット上のインフラが整備されてきて、オンライン上の倫理に反する発言も減少傾向にある。つまり、このブログも同様に、ある特定の数人の人が呼んでくれて、コミュニケートできればそれである意味完成なのである。もともとこのブログの意味はそこにあったはずだし、存在意義はそれだけで充分に認められたことになるのだから。

12月9日はそれはそれはとてつもない寒さでした。自宅には小さな電気毛布が一枚ヒラヒラとしているだけで、その他に体を温めていただけそうなものはありません。エアーコントローラーは下手をすると喉がカラカラになって逆に風邪を引いたりなんかして、それはそれでとてもバカらしいので、なんとか耐え忍んでいました。が、いよいよ洒落にならない季節に入り、生命の危機を感じ始めた僕はこれはイカン・イカンぞと直感し、急いで厚めのコートを買いに出かけたのです。東京はなんでも高いなぁという噂は以前からちょくちょく耳にはしていたのだけれども、やはり高いなぁ。少し値札をみて、店をでる。少し値札をみて、店をでる。を繰り返しているとなんなんだ俺はと、なんだかとても空しい気持ちになってきて、クラクラしていたら、なんだか元気がとても良くて、声は大きいんだけど、滑舌の悪い、180cmぐらいのお兄ちゃんが近寄ってきました。
「自分がおすすめする、まじっ一押しのコートあるんすけど、ぜってー
いいっすよ!自分がおすすめしてますっ!」
「あぁ・・でも予算的には2~3万円ぐらいで抑えたいんだよね。」
少し驚きと半笑いの顔で・・
「まじっすか!3万っすか!きつくないっすか!うちの店だと一番安くても6万からなんっすよ。でもそれがまじですっげー肌触りで、やばいっすよ。ちょっ、きてみます?オッケ、きちゃいましょう。おーい、そのコートのMサイズもってきてー!」
と話しは僕を差し置いてとんとん拍子に進んでいきました。
「いやね、だから予算が3万しかないから、ちょっと無理・・・」
「はいきたー!このコートね、裏地が豹柄なんっすよ!ヒヒ。まじやばくないっすか?これ相当やばいでしょ。じゃあきてみましょう。」
なぜか彼は強引にそのコートを僕にきせて、ご満悦そうでしたので、僕も一緒になってははは、中々いいですねなんつって、値札をチラッとみたら12万。えぇえ?と値札を2度見してしまい、
「(だからそんな金ねぇずら!ギャー!)」

といってやりたかったのですがすいません言えませんでした。

結局雨天決行で飛び出した末に2万円の厚手のコートに辿り着き、今年の冬はなんとか乗り切れそうだぜなんて思いながら少し街をぷらぷらしていた。「やらなきゃいけないことをやるだけさ。だからすべてうまくいくんだ。」ってこれどこで読んだ文章だっけ?みうらじゅん?いしいしんじ?あっ、12月2日に新宿モーションでライブをやりました。なんだか色々ありましたが、とりあえず大成功ということにしておきます。演奏中に機材がピーっつって止まってしまった以外は、ヨコのりとタテのりの中間ぐらいのグルーブ感で浮遊した音が重なりあう調和のライブであったので、とても素晴らしかったのです。また1月中旬に大きなイベントがあるようで、とても楽しみです。やはり音は生で聞くと全然振動の感じ方が違うので、面白い。音楽はどこまでも自由で変幻自在ででもちゃんと規則性があって形をもっているもの。映像のようであり、過去でもあり未来でもあり荒々しい筆遣いにも似た感情のかたまりでもあったり。つまりなんでもあり。


















PageTop

live and link







ライブに出演します。

event :Ou Presents Hello Monster Vol.1
date :12月2日(土)
place :新宿Motion
ticket :2000/2300(adv/door)
artists :ou/reco/tiger of magic bottle/砂場(from長野)/伊達+chib


and久しぶりに友達のブログ追加です。

http://clear3.exblog.jp/




以上、取り急ぎ。
















PageTop

everyone , shout



54.jpg 52.jpg 37.jpg

ある人が言う。
「不安なんて、空気に二酸化炭素が混じってるのと同じくらい普通な事であって、小さなことで一喜一憂したり心配で眠れなくなったり。それがあたりまえ。でもみんなそれぞれ自分の思う一生懸命をやってるだけで、それがみな全然違うから面白いんだ。」

「時間と空間は渦をまくようにどんどんとそのスピードを増していくから、その流れに押し流されて自分がどこにいるのかもわからなくなってしまう。ふっと振り返るとそこに見えるのは白く小さな無数の点、引き寄せられあっては消滅して不可思議なカタチを作りながら右往左往している、泡ぶくのようなもの。なんだかそれを目にすると悲しいような嬉しいような、ちょうど100ぐらいの感情がふとい風のように一気にこころに押し寄せてきて、深い香りのする夜の奥のほうで、少しかけている月と一緒にいる。そうすると一度リセットされた体が空気の流れと同じ方向にいこうとしているのがわかって、誰といたいのでもなく自分自身といたくなる。」














PageTop

live at shimoktiazawa





10月28日に下北沢でKUALA MUTE GEEK が開催されます。
僕は絵で少しだけ参加します。以下、イベント情報(抜粋)です。

今回はGreg DavisのAutumn Recordsレーベルより、フィールドレコーディングの2枚のCDをリリースしているkorii [Corey Fuller](コリー・フラー)とアントナン・ゴルチェによるサウンドプロジェクトDigiki(ディジキ)、moom 瑠(ムームル)をゲストに迎えます。詳しくは以下のインフォをご覧ください。

=============

Kuala Mute Geek Vol.8


■ 日 時: 2006.10.28(土)開場:19:00  開演:19:15 
■ 出 演: Corey Fuller / opitope / moom瑠 /Digiki
■ 料 金: 当日¥2,000
■ 会 場: 下北沢 アレイホール
http://homepage2.nifty.com/alleyhall/frame.html
■ MORE INFO : http://www.chihei.org/
■ 企画・制作:KUALAUK TABLE


opitopeが主催するミュージシャン同士の交流の場を広げるイベントKuala Mute Geek。今回は、Greg DavisのAutumn Recordsレーベルより、フィールドレコーディングの2枚のCDをリリースしているkorii [Corey Fuller](コリー・フラー)とHATTRICK RECORDSよりデビューアルバムをリリースしたアントナン・ゴルチェによるサウンドプロジェクトDigiki(ディジキ)、竹村延和のレーベルchildiscのコンピレーションに参加し、CLAYよりファーストアル
バムをリリースしたmoom 瑠(ムームル)の3組のアーティストを迎えることになりました。

ワシントン州べリングハム在住のコリー・フラーは、ミュージシャン、オーガナイザー、映画家として活動中でギター、ピアノ、ローズピアノ、グロッケンシュピル、アコーディオン、フィールドレコーディングを含めた様々な生楽器/生音を素材にmax/mspと言ったデジタル環境やアナログ機材で細かく加工した繊細な音楽を提供している。

パリ在住のディジキはMomus、Toog、Helena等のリミックスやコンピレーションの選挙区などで幅広く活動中で、日本人アーティストのコラボレーションも多く、自身のCastellaneも主宰している。

東京在住のmoom 瑠は昨年北九州より活動の場を東京に移し、幻想的かつ、どこか日本人の心の琴線にふれる歌声で今もつとも注目されいる女性ヴォーカリスト。

opitopeは畠山地平と伊達伯欣によるユニットで、2002年頃より活動を開始し、ソロとしては畠山がkrankyよりファーストアルバムをリリース、伊達はspekkのコンピレーションに参加
している。今年の9月には、COMMUN DISKの水をテーマにしたコンピレーションにvalyushka Aka opitope名義で1曲参加している。

さらに今回は、opitopeとその仲間達によるアナログ手法のリアルタイム・プロセッシングの映像をを披露します。イベントの最後には出演者による即興セッションも予定しています。







時間ありそうな人、連絡下さい。
以上、取り急ぎご連絡まで。



アデュー。

PageTop

peace




DSCF2075a.jpg DSCF2084a.jpg





DSCF2339a.jpg DSCF2191a.jpg DSCF2082a.jpg






目の前にある一定の空間に対峙するとき、その圧倒的な広さに戸惑い、それが放つエネルギーに吸い込まれて導かれるように何かを描き出す。描かれたものは一つのこさず全て自分の中にあるもの。自分の中からあふれ出るもの。キャンパスの上には世界への認識と個人の主張が必ず現れていて、フラットな壁の上で無意識に爆発している。

ある作品をみて共感するか嫌悪感をもつか、どちらかであればそれは真剣にその作品を捉えたということになる。何も感じないことの方が多いのではないか。その作品に対して何らかの反応ができるのは一つのスキルであって、そのスキルというのは単純に、描いた人と同じくらいの緊張と集中を持てるか否かということのような気がする。描いた人と同じエネルギーを持ってみないとそのエネルギーはどれもみな頭の上を通り過ぎてしまうような気がする。この作品群を見てそんな事がふわふわと頭に浮かんだ。

for peaceという言葉が現れる。理論や理由はいくらでもつけられるけれど、それもあまり意味がない。僕自身はこの絵の上でfor peaceという言葉が浮かんでる。自分を作品にしてその作品で人を結びコミュニケートする。躍動する被写体とただそこにいる被写体が無限大の人間を肯定しているように見える。人間は自分の可能性の4%ぐらいしか使っていないらしいから。

シンプルな構図がもつ大胆な印象をはらみつつも、その中にオリジナルな存在としての人間が型取られて心地よい。僕は完全な身勝手な解釈をもって「嫌悪感」ではなくて「共感」をえた。




















これらの作品はアメリカにいる友達による、大切な作品です。










PageTop

gunma



DSC02641.jpg DSC02628.jpg

群馬という場所に約6年ぶりに訪れて、改めて日本は山国なのだなと気付かされる。刈りどき真っ盛りの稲が放つ懐かしい香りと、遠くに見える山々の所々にかかる霧がはれると、山の一つ一つが持つ線の輪郭が見えて、綺麗な曲線が浮かび上がる。

田園風景の中にぽっかりと浮かぶ赤城山はその中でも飛び抜けて神々しく堂々として、僕達の雑念もかき消してくれているようでなんとも不思議な気持ちになる。富士山もそれだけをみると気がつかないが、周囲の山と見比べてみるとどれだけ特別な輪郭を持っているのかがわかる。遥か昔から日本人がその曲線に魅せられたように山々は今でも特別な存在だ。

赤城山の中に佇む大沼といわれる小さな沼に着いて車から降りると、そこは冷凍庫の中のような寒さだった。朱色の細い橋をはさんだ向こう側には砦のようなものがあって、小さな神社があるが寒すぎてとてもそこまではいけなかった。霧が沼のすぐ上まで降りてきて、なんとも異様な風景で、神隠しにあいそうな恐ろしさがあった。なんだか人が入り込んではいけない場所のような気がしてきて、すぐさま車を走らせた。

その日は見事な満月だった。途端にだんごが食べたくなるほどにパーフェクトな円をみせてくれた。周囲の木々に群がる鈴虫が鳴いて、すこし冷たいぐらいの秋風が吹いて、ただっ広い大地全体に月のあかりが反射して電灯なんていらないくらいだ。

赤城山の麓にある友人の家に泊めてもらった。夜はそれはそれは静かなこと極まりなく、何もせず座っていると自然と目がトロトロしてきて眠たくなる。昼か夜かよくわからん生活を送っているとわからない自然のチカラみたいなものを体で感じる。東京で住むよりも邪念は少ない。一つ一つの行動に誠実に、丁寧な時間をすごす。例えば好きな時間に欲しいものを手に入れられて、いつでも誰かと連絡をとれる環境にいると、逆につながりが希薄になったりリズムを保てなくなったりするものだ。

中目黒から新町という駅まで2時間かけて辿り着いて、1泊だけして帰った。それ以上に長い時間をすごして、大きいエネルギーに触れた。









PageTop

live performance



DSC02576.jpg DSC02581.jpg DSC02595.jpg


9月10日(日)に水道橋JANISにてインスタレーションライブをしました.プロジェクターを3台使った映像を3メートル強の長さの白い布に写して、その下で演奏するスタイリーかつアバンギャルドな手法で、セットを組む前のそれとは雰囲気も空気もまったく違うものになって、あぁ、セッティングでこんなにも変わるんだなぁと、一緒にいたメンバーの才能に脱帽するばかりであったのだった。実際には少々のトラブルでセッティングに時間がかかってしまったものの、結果的には大成功&大満足のライブで、特筆すべきは白い布いっぱいに広がる巨大な映像群であーる。花火や祭りや電車の風景がループして飛び交うその空間は異様なまでの静けさを演出するので、音を出す側も「静寂な音」にイメージをこめることが要求された(矛盾しているようだ・・)。ただ、演奏者同士の距離って意外に大事だなと思ったりして、やはり次はどうくる?とか今、どんな感じだ?なんてものを感じ取るには、やはり近いほうがいいし、コミュニケーションがとりやすかったりする。お互いに意識しなけりゃいかんと強く痛感させられたのであっ、た。

観客はそのほとんどがCD屋から流れてきた人で、ちょっと見て帰るものあり、長い間見るものあり、けっ、と言って笑いながらそそくさと帰るものありと多種多様なレスポーンスであったけれども、演者は皆、表情から、各々は楽しかったであろうと推測されるので、それであったらもっと多くの人と共有できればよかったなと、つくづく思うばかりであった。ひとつ思うことは・・クーラーききすぎだっっ。音を出すのはどういうことなのかというと(表現することに共通することであるけれど)恐らく2つあって、ひとつはあるオリジナルなオモイやシュチョウがベースにあること、二つめは無条件で音を出したいという欲求があること。この2つがあると聞いていて面白い音楽になるはずで、このオリジナルというところが最も重要なところであって、それを形にするまでは中々時間がかかるものであるね。













PageTop

live and life

DSC025641.jpg DSC025341.jpg DSC025501.jpg

こんにちは。ご無沙汰しておりました。
最近ではもう月に2・3回のペースでしか更新できなくなってしまいましたが、このページがある日突然なくなってしまわないように、誰にも読まれなくなってしまわないように、これからも意味の解らぬ文章を勝手に更新していきます。何も考えず勝手に適当なことを書いているので、暇なときに勝手に見てください。でも懲りずに。

今まで種種様々な人からこのページに関して意見を頂きましたが、一番多かった批判が、「文字が小せえょ」ということでした。これは、僕もうむ、ごもっともである、と思うのですが、実は意図的というよりも文字サイズの変更の仕方がわからなくなってしまったのです。書いてる僕自身も目を細めて見ることがあるぐらいですから、特に年配の方なんかは(そんな年代の人は見ていないでしょうが)僕以上に目を細めているに違いありません。ここで言っておきたいのは、これは意図的ではないこと、そしてその解決策としてパソコンにはフォントを拡大する機能がついていること(既知の事かもしれませんが)の2つです。キーボードの左下にある「Ctrl」を押しながら、マウスをスクロールすると、文字の拡大縮小ができます。大変お手数ですが、「文字が小せえょ、バカヤロウ」という人は上記の方法でトライして見ましょう。

今は土曜日の午前中です。9月に入ってからすっかり陽が落ちるのがはやくなって、また季節が移り変わってゆくのを感じます。今年の夏は海にも旅行にもいかなかったなぁ、いけなかったなぁ。でも来年は(恐らく無理でしょうが・)タイか中国にいってやろうと密かに企んでいます。
透明でぼやけた匂いを発生する朝の、とても早い時間の空気で起きて、たまった洗濯物をして、ひさしぶりに掃除機をかけて、キッチンをかたし、ゴミをすて、少し前に買ったローズマリーに水をやり、近くでコーヒーを嗜み、急に銭湯いったろかしらと思って銭湯にいったら、値段があがっているのに少しへこんで(今は430円だ)、銭湯の窓から聞こえてくる今にも崩れそうな鉄橋を渡る地下鉄の音がゴンゴン響いている音になんともたまらない哀愁を感じつつ、昼間っから贅沢だななんつってちょっとご機嫌になり、またたまに来たろかしらと思ったりして、一服して今パソコンで文章を書いています(中身のない文章でゴンス)。

文章を書くことが口頭で自分の事を伝えるより楽な僕にとっては、書いているときに聞く音楽はとても重要で、大いにその文章に影響を与えます。サイケデリックな音はサイケデリックな文章になるし、やさしい音は文章もやさしくすると(これは勝手に感じていることですが)思っています。「spangle call lilli line」という日本のバンドが文章を書く時にはぴったりで、アメリカのトモダチが教えてくれました。いつまででも聞ける、自分にぴったりのバンドは中々見つからないものです。だからそういう音は大切にしましょう。

「子供から大人になって得たものはあるが、大人になって失っているものもかならずある。」と、蜷川幸雄はかつてこんなことを言っていました。それは見栄や傲慢さのかけらもない、彼が長い人生を生きてきた中で掴んだ率直な実感のようなものだったのでしょうか。蜷川幸雄が何を指してそんなことを言っているのかわからないけれども、なんだかわかるような気がして、それから、自分でも大人になるとは一体どういうことだろうかと考えてみると、実はこれが想像以上に曖昧なものです。例えば、(なんだかイタイ男ですが)貧乏ゆすりを必要以上にしなくなったこととか、相槌をうまく打てるようになっただとか、学生の頃は「腹ヘリ即間食」というのが当たり前でしたが、それが我慢できること(しかしそのお陰で(?)最近やつれたぞ!、お前は可哀相だ!と同情され、ひえぇ?と不安になったりしている有様である)。ダイエットなる類いのものにも無縁であるし、むしろ忙しくて飯は夜遅いが食欲は旺盛であるし・・ひゃっ!さてはストレスだな。ストレスなのか・・?いや、そうだ。そうに違いない。でもそんなにたまっている感じもしないぞ。いや、でもやっぱりたまっているのか。たまっているのだな。とにかく大人になって身についてしまったこと(つまらない見栄・世間体・かっこつけ・傲慢さ・嘘・無責任)は色々あるでしょうが、一番なくなってしまったのは、「想像力と感受性」ではないでしょうか。僕はそう思います。

中目黒の近所に住む友達がいます。少し前にトモダチのトモダチとして知り合った、暑い夏の日にひび割れたコンクリートの隙間から少しだけ見えてる小さな雑草のような人で、たまに僕の家に来て一緒にギター片手に歌を歌います。他人と同じものを一緒に作っていくというのはとても楽しくて、基本的には「ニンゲンカンケイ」が面倒くさい人間ですが、共通するものが多ければ多いほど「ニンゲンカンケイ」なんか気にならなくなって、とても自然な状態でいれることに気がつきます。「類は友をよぶ」とはよく言ったものですが、結局それは自然な流れの中で、人は集いあうのでしょうか。

うだうだ言っておりますが、忙しいながらもいたって平凡な日々を送っているであります。平凡・平凡といっても仕事の中で少しだけおっ、ちょっと成長したかも・・なんて思えるのは、嬉しいものです。1日1日では見えなくても少しづつでもやっていくというのは、本当に大切であるなぁと痛感しております。


最後に、二つ告知があります。

ブラボー!ファーブル先生(作、演出:平石耕一)

僕の友人で役者をやっているトモダチがいて、9月27日(水)~10月1日(木)までブラボー!ファーブル先生(演出:平石耕一)という舞台に出演します。あのファーブル昆虫記のファーブルの教師時代の話をコメディタッチで描く舞台演劇です。友人はファーブルの弟役で出演します。全席指定で5,000円。是非行けるぜという人がいたら連絡お待ちしております。詳細は下記URLご参照下さい。

http://www18.ocn.ne.jp/~hiraishi/

水道橋ジャニスライブ

9月10日(日)13:00~22:00、5~6人で9時間ライブを決行します。3台のプロジェクターを使って、映像・ペイント・音を使ったインスタレーションライブです。今回のライブはDVDとして録画される予定なので、そちらの方も完成しだい報告します。詳細は書きURLご参照下さい。

http://www.janis-cd.com/


知らないことを求めて
行けないはずの場所に飛んで

戻れないところで泣いて
帰れない世界に落ちる

孤独の中で生きて
孤独の中で死ぬる

何かかたちのないもの
目の前にある見えるもの

無音に潜む爆音が
右手を震わせ 痙攣する

遠い空に思いは浮遊して
今ここには何もない

深く深くどこまでも深い
ピープルという無尽蔵

はきだす言葉は全て真実のようでもあり
全てうそであるような気もする

見えるもの全ては真実のようでもあり
全て虚像であるような気もする

人々にかこまれて逃れて
羨ましげに世界を見る

宇宙にかこまれて慌てて
世界から見下される

つくろわず見栄をはらず
気持ちを真ん中にあつめて

雑念も集中もいっしょくたにする
そうするともっと自由になる

もっと高くまでゆける
思っていた以上のところへゆける

一人で行くのではなく
君と行くのである



さようなら。また何か書きます。

PageTop

give, tell, call



気が付いたら、ずいぶんと時間に流されていることに気がついて、少しそわそわした気持ちになった。写真に映し出されたとてもとても遠い昔の、見たこともない自分の姿を見ると、ここに今流れているものはそのそれとは、全く違うものであることを感じざるをえなかった。ただそれは誰にでもそしてどの時代にもあてはまることで、何ひとつおかしいことではないはずなのに、なんだか透明な実感もなく、憂鬱で、ただただその事実に立ち尽くしてしまっている気分だ。

気持ちは場所を変えてもぐらぐら揺れて、揺れているのもわからないぐらい背中を押される時間もあるが、その瞬間瞬間は全く違う生命が躍動しているのだ。情熱や希望がなくとも、無尽蔵な僕達はそのままで発熱し、光を帯びて、今この瞬間、その場所にたっている。

世界との距離はどんどん縮まっていくようで、実は恐ろしいスピードで大きくなっている。「知らない」ということを「知る」ことによって無限大に広がっているのを感じる。そういう一人だけの感覚と感情は、意識的に伝えなければいけないような気がするのだ。









PageTop

live

平日ですが、ライブにでます。

日時:8月15日(火)19;00~
場所:高円寺 円盤 
告知;http://chihei.at.webry.info/200608/article_1.html

描く。やる。ただ、やる。
「やる」の圧倒的な総量以外に、君らを前に進める天才的アイディアも虫のいいひらめきもない。(井上武彦)







PageTop

wind is blowing




今日は一日中風が吹いていて気持ちが良い日だった。自転車も追い風がてつだってペダルもいつも以上に軽快にまわる。涼しくて風が良い日は気分も軽くなる。だからそう考えると風って大切だ。風があるとないとでは体感温度がぜんぜん違うからだ。こんな季節が夏の間ずっと続いたら外に出るのもいやではなくなるだろうに、梅雨が明けたらきっと照り返すような暑さがまたもどってくるのだろう。

扇子を買う友人に便乗して、新宿で風鈴を買った。今日それを窓際にたらしてみると、今日のこの見事な風にゆれて良い音がする。この部屋は基本的に風が通りにくいから、いざとなったらクーラーの風を使ってでも鳴らしてやろうと思っていたが、北から南へふく、強度のちょうどいい風が風鈴をちょうどいい感じでゆらす。なんでだろうか、ただチリンチリンとなるだけなのに懐かしくなって”ゆったりな感じ”、になる。その風鈴の音にビールと甲子園中継でもあったらそれだけで夏を満喫した気になる……なれそうな気がする。sでもこうなってくると欲がでてきて、もっと良い音のする風鈴が欲しくなる。また東急ハンズへいきたくなる。

もう8月だ。夏休みはこんなにもはやかっただろうか。最近人に会う度にあれっ、もう8月じゃない?なんて話を毎回のようにしている。でもそれもそのはず、考えてもみれば学生の頃は5月から4ヶ月も夏休みがあったわけだし、長い夏休みのない年は今年が始めてなわけで、ほぼ終日室内にいるような生活を送っていればそれは蝉の声も聞きそびれてしまうというのも当然の話だ。

涼しい日には、軽い食事より、少し重いトンカツが食べたくなる。池尻大橋でトンカツを食べたら、これが上手い。なんでも豚に芋を食べさせるとおいしい豚になるらしく、そこのトンカツは芋をたくさん食べた豚を使用していた。でも実は一緒にでてきたあさりのみそ汁の上手さのほうに感動してしまって、なんだか複雑な気持ちになった。

今週は「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(下)と、
   「東京ゾンビ」という映画、面白かった。











PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。