numbnessandsuprise

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「ホムンクルス」 山本英夫
「恋の門」    羽生生純
 
近頃どうしてだか、漫画を読むことが多い。小説の反動だろうか、漫画はスラスラ読めてしまうので、ついつい読んでしまうのだけれども、久しく読んでいなかったからだろうか、非常に興味深い作品が多い。この独自に発展している漫画という文化は、この日本という国の「アングラの部分を特に如実に表すことができる」という点で重要であるし、また赤裸裸でもある。だから内田春菊・吉田戦車等日本人特有の陰気な匂いのする漫画が特に好きだ。

「恋の門」は松尾スズキ氏で映画化になっている。映画が原作を超えるのはやはり相当至難の技のようで、最近では日本の漫画を原作に韓国のパク・チャヌク氏が撮った「オールドボーイ」は、原作を抜いているんじゃないかと思う。「恋の門」、この漫画に関しては至極説明しにくいが、劇画タッチの絵が恋乃と門の悶々とした日々、そして恋愛を見事に表現していて、段々本気で同情してしまうのだ。微妙な間とかが、上手い。そう、この漫画らしくない微妙な間の取り方が、もうすでに映画的なテンポだから、やっぱりこれを映画にしてしまうと、なんだか味気なくなってしまうんだな。

「殺し屋1」の原作者でもある山本英夫の著作「ホムンクルス」は、頭蓋骨に穴を開ければ第六感が芽生えるという「トレパネーション」という手術を施されたホームレス・名越が体験するその開かれた不可思議な世界を描きながら、主人公の非現実的な体験を通して、人間の無意識な部分に奥深く迫って行くストーリー。そのリアルな感覚は恐怖よりもむしろ人間の無意識の領域の存在に負けてしまいそうになる。「ホムンクルス」とは、端的に言うと、人々の心の深層に沈んだ歪みが生み出すいろいろな化け物、主人公はその手術を受けた事によって、他人のホムンクルスが見えるようになってしまう。かなり、衝撃的な描写の連続でタフな内容だが、今まで読んだ事のない新しさを、もの凄く感じる。

「実は、人間は身体から無意識に莫大な情報を垂れ流し、無意識に莫大な情報を受け取っている。五感を使って無意識レベルの見えないところで、情報交換を無意識に行っている。」
この台詞はかなり強烈であったが、これは所謂、雰囲気のようなものだろう。または、違和感、ぎこちなさ。だから、きっとうわべだけのきれいな言葉や引きつった笑顔は身体から無意識に流れて、相手に伝わっている情報とは違うものであるから、そこに何かしらの違和感が生まれる、というのは往々にして真実なのかもしれない。







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2006-1to2



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from left
神の子どもたちはみな踊る 
ハゴロモ
言い難き嘆き持て



神の子ともたちはみな踊るから

「三宅さん、火のかたちを見ているとさ、時々不思議な気持ちになることない?」
「どういうことや?」
「私達がふだんの生活ではとくに感じてないことが、変なふうにありありと感じられるとか。なんていうのか、アタマ悪いからうまくいえないんだけど、こうして火を見ていると、わけもなくひっそりとした気持ちになる。」
三宅さんは考えていた。「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。順ちゃんが火を見ててひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや。そういうの、わかるか?」
「うん。」
「でも、どんな火でもそういうことが起こるかというと、そんなことはない。そういうことが起こる為には、火のほうも自由やないとあかん。ガスストーブの火ではそんなことは起こらん。ライターの火でも起こらん。火が自由になるには、自由になる場所をうまいことこっちでこしらえたらなあかんねん。そしてそれは誰にでもできることやない。」



ハゴロモから

自分の薄い肌の下に息づくしくみが、目の前に大きく広がる全てとそう変わりはないのだと実感できる気さえする。壮大な考えとみみっちい心配の全てがこの景色のように無造作に、でも美しい秩序を持って存在している。そして、これが私に見える世界だ、でもほんとうはもっともっと大きいものに違いない、そういうどきどきした気持ちになる。川の流れを見つめていると、ただそうしているだけで無限に何かを蓄えている感じがする。川辺で触れ、見ることができる全てのものが私の肉体や魂に活気を与え、充電しているのをカラダで感じる。地面から、空の色から、見渡せる町の光や車や、そういった全て、人々の生きていく営みの活気や、草の色や、小さな生き物たちや、流れていく巨大な雲。かすかに聞こえてくる音が耳に響く様子・・・きっとそれぞれの町でそれぞれの人間が、それぞれの場所からもたらされる特別でありながらも平凡なそういう癒しを受け取りながら、この世界を生きているのだろうと思う。



言い難き嘆き持てから

実は私は、一人の人間が精神の苦しみから回復するには、それが本当の苦しみであればあるほど、当人にそなわっている自立した力を頼りにするほかない、と考えてきました。たとえいかに近い関係でも、他の人間はその自力による回復を希求し、分をわきまえて励ますほかはないと、痛みをともなわなかったのではない経験から知っているのです。自分においても、大切な友人たちについても、それはすでに成熟した知性の大人についてもそうです。










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体は全部知っている /2000
吉本ばなな

アロエは陽を受けて私に何か言いたそうににしているように思えた。とげとげした肉厚の歯を冬の空に高く広げ、重なりあいいくつもの赤くごつごつした花を奇妙に咲かせて、生きている喜びを伝えようとしていた。アロエの愛情に包まれて、私は陽の光の中であたためられているような気がした。そうか、こうやってつながりができていくのか、もうアロエは私にとってどこで見ても見る度にあたたかいものや優しいものにつながっていく。どのアロエも私には等しくあの夜に植え替えたアロエの友達だ。人間と変わらずに縁ができていく、こうしていろいろな植物と私はお互いに見つめあっていくのだ。、そう思った。祖母から私が受け継いだものは例え根拠のない迷信のようなものであっても確かに役立っていくその力、よく言われる「みどりのゆび」なのだった。この才能があれば植物はその生命をこの腕の中で存分に輝かせることができるはずだった。こうやってこの仕事についた人々と私もまた、つながっていくのだ。

生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシーンが私の魂を埋めつくしているのだが、生きていることに意味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。









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暗いところで待ち合わせ
乙一
2002年
幻冬舎文庫

「警察に追われている男が目の見えない女性の家にだまって勝手に隠れ潜んでしまう」という物語。ある事件をきっかけに12月のある2週間を二人は同じ家で過ごす事になる。他人の気配におびえるミチルと障害者の家に逃げ込んだアキヒロ。切なさと黒々しさの極みとして知られる乙一作品の特徴は構成力とプロット、そして奇抜な譬喩力にある。実際に読んでみるとわかるが、感情を譬える為の譬喩がかなり多い。そして中盤から背中を押されるようなスピードでストーリーは倍テン進行し始める。意外性と苦悩、せつなさとやさしさが、結末の中で一つの線になって、読後感は妙にすっきりしてしまう、とても読みやすい映像的な文章だ。恐怖という要素は、二人の強烈な”感受性”と”気配の会話”の中にあって、それが暗闇の”空間”と”恐怖”を作っている。目の見えない女性の鋭敏な感覚が目の見えないなにかを具現化さしているようで、それが、終始感じる恐怖。

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疾走 上下巻
重松 清 
2004年

”にんげんは不平等ですがそれもまた公平なことなのです”

人はなぜ人を殺すのか、なぜ自らを殺すのか、なぜ争うのか、なぜ’ひとり’なのか、なぜ誰かと繋がっていたいのか、父親、母親、兄のシュウイチ、加えて「沖」と「浜」に別れた干拓地と広大な水平線の辺境地での人々の争いの中で過ごす15歳のシュウジは壮絶な運命を背負いながら時には生へ向かい、死に呼び戻され、未来へ過去へ取り残されて、孤独か孤高か孤立であるのかを自分自身に問いかけながら疾走してゆく。シュウジは学校にいく変わりに待ちにある教会に通った。そこで神父からもらた聖書を繰り返し読むようになる。こんな場面がある。

”…………聖書には難しい言葉も多かったが、おお、これだというくだりを見つけたらそこに線を引いた。たとえば旧約聖書ヨブ記第十四章のこんなところ・・・。
「木には望みがある
たといきられてもまた芽をだし
その若枝は絶えることがない
たといその根が地の中に老い
その幹が土の中に枯れても
なお水の潤いにあえば芽をふき
若木のように枝をだす
しかし人は死ねば消えうせる
息が絶えれば、どこにおるか
水が湖から消え
川がかれて、かわくように
人は伏して寝、またおきず
天のつきるまで、目覚めず
その眠りから覚まされない
どうぞ、私を影府にかくし
あなたの怒りのやむまで、潜ませ
わたしのために時を定めて
わたしを覚えてください
人がもし死ねば、また生きるでしょうか
わたしはわが服役の諸日の間、
わが開放のくるまで待つでしょう」”(p314-315)

まるで自分にいっているような、自分の代わりに代弁してくれているような感覚をシュウジは聖書の所々で感じるのだった。そして言葉とはなんだろうとおもう。ただの言葉だと思うのに、どうしても聖書の言葉が心から離れない。だんだん喋る相手をなくしたシュウジの相手はいつしか聖書になっていく。あらゆる運命に出会い、翻弄され、そして悩みながらもシュウジは希望と未来を求めて東京へと一人旅だっていく。

SABU監督で今年映画化。

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シガテラ
作:古谷 実 
  全1-6巻

  前作ヒミズのテイストを引き継いだ青春物語。シガテラとは亜熱帯の毒魚による食中毒の総称。学校にいくと荻野は谷脇に毎日苛められるが、バイクと彼女南雲を希望の糧にして日々を過ごす。谷脇のいじめがある日突然終わり、南雲との幸せな日々が続くかと思ったが・・。
  稲中・グリーンヒルとは一転、‘笑い‘を抑えたシリアスでリアルな若者の苦悩と生活を描き出したシガテラ。主人公が持つ最大のキャラクターは、強烈なまでの自己嫌悪と向上心だ。心のベクトルが常に不安定な中でも荻野はより強く、誰かの為に生きる事を学んでゆく。荻野は周囲の人間に不幸の源だと言われる。ショックをうける。自覚していたからだ。荻野は常識人であるが故に周囲にある「異常」をよく観察している。自分がクラスの、社会のどのレベルにいるかを把握している。幸せになる事を恐れて、彼女がいなくなったらどうなってしまうのだろうと嘆く。荻野は至極当然に客観的に自分を受け入れていく。最終章で社会人になり’立派な大人’になった荻野は”自分はつまらなくなった”と呟く。17歳の”毒”を思い出す。荻野の中のシガテラとは何だったのだろう。

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ヒミズ
作:古谷 実
全1-4巻

ヒミズはモグラ科の動物。日に当たると死んでしまう(日みず)。
人生に夢も希望も持とうとしない中学3年生の住田。彼は誰にも迷惑をかけずに生きようとする。不幸にも幸福にも遭遇しないように彼はヒミズの様に日々を重ねていくが、ある日母親が愛人と蒸発、その矢先住田の”元父親”が住田の前に現れる。その時住田がとった行動は・・・。

結局住田は父親を殺してしまう。それはある側面では衝動的であり計画的でもあった。住田は父親を殺害した後、4つの選択視を考える。1自首、2自殺、3幸運を探し続ける、4そして最後に今から頑張って立派な大人になる。
住田はどこまでもストイックに自分自身を追い込んでゆくが周囲の人々は彼の悩みや不安を理解できないでいる。周囲の人々からだんだん距離を置き始める。自分の”死”や”運命”や”境遇”について考え始める、学校にいかなくなる、自分を慰めない事を、多少の不幸で嘆かないと、誰にも迷惑はかけないと誓う、無数に起きる無残な犯罪も住田は冷静に現実として受け止め始める。そして”オマケ人生”と称して”悪い奴”を探しに街を歩く。住田の為に人を殺して6000万を盗んだ正造、彼女の茶沢さん、きいち、多くの変質者、そして住田を見つめる死神の影。

物語の中で起こる事が日常的なのか非日常的なのか、考えや思いが被害者なのか加害者なのか、住田の思考の中は赤裸々に暴かれ、住田はその答えをみつけ始めるのだ。気づけば人間の根本的な衝動と煩悩と愚かさがそこには、ある。

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空中庭園 作:角田光代

郊外に住む京橋家は秘密を作らない事を家族の約束としている。しかしその生活には至る所に秘密の影が潜む。そしてストーリーが進むにつれその影の 深さが表面化しはじめる。 六人の視点から描き出される家族の中の「自分」 とその関係性。マナ、コウ、パパ、ママの四人家族、更に祖母、パパの愛人ミーナ、六つの視点から全く 異なる価値観で家族という狭間で揺れ動く人々。

6者6様全く異なった家族感、信頼感、責任感を持っている 事が浮き彫りになり始める序盤から既に京橋家の家族としての 違和感を読者は感じ始めるだろう。南向きのドアがある郊外のダンチ に住み絵に描いたような幸せな家族、全員違和感を感じているのに 心のドアは”逆オートロック”状態。全員がアンバランスで 身勝手な態度の中で家族を維持し、良い家族を振舞おうと してゆく様は徐々に異様な雰囲気を醸し出し始める。 連作小説の場合、各々の視点からの家族像がどれだけリアルで あるかが最大の焦点であるように思う。その点角田光代の文章は 引き締まっていなくて上手い。ふわふわしている。 文章自体に角田特有の淡いイメージと軽さがあって、アンニュイで悲哀な感じをそこで受け取る事できる。


10月に公開予定だった映画「空中庭園」。監督豊田が覚せい剤所持 で8月逮捕。公開延期される可能性もあるだとか。なんか、悲しいかな逮捕するのは勿論そうだが映画は別にいいでしょうと思う。

豊田監督のその他の作品「9ソウルズ」「青い春」「アンチェイン」





アインシュタイン

「わたしは天才ではありません。ただ、人より長くひとつのこととつき合ってきただけです。わたしには、特殊な才能はありません。ただ、熱狂的な好奇心があるだけです。わたしにはよいアイデアが浮かびますが、他の人もそうです。ただ、わたしの場合、幸運だったのは、そのアイデアが受け入れられたということです。わたしは、自然について少しは理解していますが、人間についてはほとんどまったく理解してません。相対性理論では、あらゆる点に時計があると想定しましたが現実においては、わたしは自分の部屋に時計ひとつ取り付けることにも苦労します。わたしは、1日100回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを。

「わたしたちが体験しうる最も美しいものとは、神秘です。これが真の芸術と科学の源となります。これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、死んだも同然です。わたしたちは、好奇心に満ちた子どものようになってしまいます。この偉大なる神秘、わたしたちが生まれてきたこの世界の前では。大切なのは、疑問をもち続けること。神聖な好奇心を失ってはいけない。好奇心は、それ自体に存在理由があります。永遠や人生や実在の不思議な構造といった神秘についてよく考えてみるなら、畏敬の念をもたずにはいられないでしょう。毎日、この神秘を少しでも理解しようとするだけで十分です。

科学の全体は、日常的な思考の精錬にほかならない。思考とは、それ自体が目的である。音楽もそうです。空間とは、物事の単なる背景ではなく、それそのものが自律的な構造をもっているのです。もし、この宇宙からすべての物質が消減したら、時間と空間のみが残ると、かつては信じられていました。しかし、相対性理論によれば、時間と空間も、物質とともに消滅するのです。熱いスト-ブに1分間手を載せて見てください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子と一緒に1時間座っていても、1分ぐらいにしか感じられません。それが、相対性というものです。

数学がしばしば他の科学を超えて特別に尊重される理由のひとつは、その法則が絶対的に正確で明白であるということだ。いっぽう、他の科学は、ある程度議論の余地はあるし、常に、新しい発見によって覆される危険にさらされている。数学の法則を現実に当てはめるならば、それは不確かなものになる。数学の法則が確かであるならば、それは現実に当てはまらない。数学は確かによくできている。しかし、自然は常にわたしたちの鼻をつかんで引きずり回す。物理学が求めているのは、観察された個々の事実を結びつけるための、最も単純な思考システム。すべての物理学の理論は、数式は別にして、「子どもでさえ理解できるように」簡単に説明すべきである。

肉体と精神はふたつの異なるものではない。同じことをふたつの異なる形で知覚するというだけのことだ。同様に、物理学と心理学も、われわれの体験を系統的な思考によって結合させようとするふたつの異なる試みに過ぎない。結果というものにたどり着けるのは、偏執狂だけである。目の見えない虫は、球の表面を這っているとき、自分が通ってきた道筋が曲がっていることに気づかない。わたしがそれを発見できたのは幸運だった。この世界を、個人的な願望を実現する場とせず、感嘆し、求め、観察する自由な存在としてそこに向かい合うとき、われわれは芸術と科学の領域に入る。

わたしは、あまり人づきあいしませんし、家庭的でもありません。わたしは平穏に暮らしたい。わたしが知りたいのは、神がどうやってこの世界を創造したかということです。ほたしは、あれやこれやの現象だの、元素のスペクトルだのに興味はありません。わたしが知りたいのは神の思考であって、その他のことは、些末なことなのです。わたしたちは、いつか、今より少しは物事を知ってるようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永久にないだろう。

わたしは誰にも何も求めないので幸せでいられます。お金もどうでもいい。勲章も、肩書も、名誉も、わたしには何の意味もありません。賞賛もほしくありません。わたしに喜びをもたらすただひとつのものは、仕事、バイオリン、ヨットを別にすれば、ともに働いた人々への感謝だけです。もし、わたしが物理学者にならなかったら、おそらく音楽家にっていたでしょう。わたしはよく音楽のようなものを考えます。音楽のように白昼夢を見ます。音楽用語で人生を理解します。わたしは音楽から人生のほとんどの喜びを得ています。

わたしは今、孤独の中に生きています。若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に。ベルリンでも、何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのです。


岸本英夫文学博士

「世界を忘れ、人間を忘れ、時間を忘れたかのような境地に没入する時、人間の心の底には、豊かな深い特殊な体験が開けてくる。永遠感とも超絶感とも、あるいはまた絶対感ともいうべきものである。この輝かし体験が心に遍満する時、時のひとつひとつの刻みの中に永遠が感得される。」



池田大作

「”負けない”ことだ。”自分が強くなる”ことだ。幸福は誰かが与えてくれるものではない。自分が強くなった分しか、幸福はない。全部自分がどうか、だ。自分で自分の人生をどのようにでも決定していけるのだ。人に頼る根性、人に責任を押し付ける卑しさ、弱さであってはならない。人を恨み、うらやみ、わびしい自分であっては、雲におおわれた太陽の自分だ。どんな悩みがあってもそれをバネにし、じっと我慢し、こらえて、今に見ろと自分を励まして進むのだ。行くべき自分の軌道を、黙々と、忍耐強く進んでいくのだ。君が太陽なのです。あなたが太陽なのです。まず、そう決める事だ。自分が太陽である限り、今どんな悩みがあろうとも、「朝」がこないわけがない、「快晴」の日がこないわけがない。「春」がこないわけがないのです。」



ノーベル賞学者利根川進教授の人間の心について

物理学的観点から

人間の体は何で出来ているのか?髪の毛から爪の先まで約60兆から70兆の細胞から出来ています。細胞は分子から分子は原子から原子は素粒子から素粒子は量子からできている。でも量子の実態とはなにか?簡単に言えば、紐のようなもので、その紐がゆれている、つまり人間の体は振動で出来ているといっても過言ではないのです。

すべての生命、動物も植物も人間もそして宇宙さえもその根本となる紐から波を発しています。人間から出ている波も一人一人異なる。人間の場合は脳から出る波が一番強い、つまり脳波ですが、宇宙の波動は最も良い波動であり、それをアメリカの科学者ウエインストック博士が発明したMRA(共鳴装置)という機会で測定すると7.5ヘルツという数字がでます。では、この波動を人間の脳波に相当させるとどのような常態であるのか?それはアルファー波とシーター波の中間状態です。アルファー波はウトウトしている状態、まどろんでいる気持ちのよい状態。シーター波は絶好調の状態、気分爽快という状態。つまり絶好調だけれども少々抑え気味でウトウトしているけれど目がさめている状態が7.5ヘルツの状態です。これが人間にとって最高の状態というわけですが、7.5ヘルツの人間とはいったい誰なのでしょうか?それは、赤ちゃんです。赤ちゃんは嘆いたり、悲しんだり、うらんだり、根に持ったりする事がないのでいつも一定の7.5ヘルツで生きているのです。目がきれい、肌も張りがある、成長が早い、赤ちゃんは存在そのものが最高の生命状態なので、全てのものを受け入れやすい状態にあります。ここで重要なのはこの最高の状態に大人になってしまった人がなれるのかどうか、なることができます。それは二つの事を意図的に実践する事です。

1.楽しい事を思い出す作業

これをいつもいつも心がけていると芋づる式に楽しい事が次から次へとわかってくる。何気なく生きてきたことが実はとても幸せだった事に気がつきます。「もしかしたらこれは本当はもの凄く幸福な事だったのではないか」「よかったな」と思える。例えばです、自分の家の隣に意地悪婆さんがいたとします。いつもいろいろとからんでくる。でももしかしたらそれで自分が成長させてもらえる、得をしていると思えたら7.5ヘルツの世界へ入ってくるのです。

2.未来に対してイメージをはっきり、鮮明に、具体的に持つ事

例えば、寿命ならいつかお迎えがくるんじゃないかと思ったら駄目で、意識的、計画的に脳に命令をして決める癖をつけるのです。実際、金さん銀さんは二人が30歳の時に100歳まで生きると決めました。だからその間病気になっても自分を疑わなかった。私は生きるという意志を持ったからです。ですからいつになったら直るんだろうという思いではずっと治らないのです。具体的に治る日にちを決めてしまう。実現していない事を自分でイメージしてしまう。するとそうなっていく。

7.5ヘルツの世界に入って行く為にはいいことをどんどん思い出す作業と未来をきちんと具体的にイメージする、この二つがどうしても必要になってくるのです。



澤高久敬博士「環境と生物の考察」からの抜粋

「ひとはともすれば一定不変の環境を考えそこへすべての生物は置かれていると考える。しかし人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そうして人間各自にとって環境はそれぞれ異なるようにすべての生物には各自の環境がある。一言にして言えば、環境は無数である。生物を離れて環境自体というようなものはどこにもない。生物が生物として次第に自己を生み出してゆくように、そうしてそれによってさまざまな生物がそれぞれ自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた次第に生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応するさまざまな環境として自己を示してくるのである。」






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