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谷川俊太郎さん①

もこもこ


谷川俊太郎氏の本で、「もこ もこもこ」という本がある。
これは幼児向けに作られた30ページ程度の短い絵本である。

「もこ」「にょき」「ぽろり」「しーん」「ぱちん」「つーん」
絵本のなかにでてくる言葉たちはこういった擬音語のみで、
絵それ自体はカラフルな抽象画でつかみどころがない。

大人たちはきっと戸惑うだろう。
この本をどう楽しんだらよいのだろうか・・・
これはいったいなにを意味しているんだ・・・

大人になるとかたくなる。
ナンセンスなしろものは怖くなるのだろうか。

この本は、出版当時じつはあまり売れなかった。
少したったころ、こどもたち(幼稚園)の間で自然と
人気がではじめ、数年後に再び売れ出したという。
こういう感覚的で意味不明な絵や音に
子供たちが心惹かれるのはなぜだろう。

谷川俊太郎氏は、ある講演の中で、
こういったある種のナンセンスな表現を、
「人生の手触りである」
と話していた。

ユーモアとでもいうのだろうか、
そういう排除されてしまいがちな
バカバカしいことや、無意味なことを
「人生の手触り」といわれて、
僕はなんだかとても腑に落ちたのである。
人生の大切なエッセンスのひとつであるとおもう。

まさに子供たちはこの
人生の手触りを
存分に楽しんでいる存在だと思う。
例えばおはしとおはしがなる音をおもしろがり、
パーカーのチャックの感触を飽きずにいじくり、
つくえのはしっこをがぶりとひとくち。
おなじことをずっとやってる。

生きていることが
本来発見にあふれ
毎日の景色も会話も
驚きに満ち満ちているのだとしたら
大人のみるものの中にも
無数の発見があるんだよと、
こどもたちから言われてるような気がした。

この絵本では「しーん」とした平地から
「にょき」とたんこぶみたいなものがあらわれる。
僕はそのたんこぶを考える。
太陽がのぼるときのような、
生命が誕生するときのような、
アイディアがうかんだときのような。

こどもたちにはなんだってよいのである。
「にょき」とでたページをめくった瞬間に、
はじけるような笑顔になって、
それだけでもう大喜びなのだから。











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金魚

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保育園の窓側に、金魚の水槽がおいてあった。
去年の夏まつりで先生達がとってきたのが始まりで、
月日が経つうちに金魚はどんどん増えていって、
最後には30匹ぐらいになった。

いつからだろうか、
しらないうちに金魚の飼育係になってしまった。
これが祭りや餌用の金魚だから
案外にパタパタと死んでしまって、
死骸を埋めるのが一苦労だった。

死骸はすぐ近くの歩道沿いの土に、
こどもたち数人と一緒に埋めにいくのが、
いつからかきまりになった。

2歳の子、3歳の子、4歳の子。
みんなそとに出れるだけで嬉しいから
死骸を埋めにきたことを忘れてしまうこもいる。
そのなかでも何人かの子は、
誰にいわれるでもなく、
葉や枝を拾ってきてお墓に飾りつけをはじめる。
そこには既にたくさんの金魚が埋めてあるから、
どの金魚かわかるようにするためらしい。
ちいさな死骸が土のなかに埋められるのも
しっかりみつめながら、
「さようなら」といってまたげんきにもどっていく。

新宿に住む子供たちは
本物のいきものをみたり、さわったりすることが
ほんとうにすくないと思う。
人ごみとコンクリートの世界で
こどもたちは本当は何を感じていきているのだろう。

死んだいきものを触って、なにかを思ったり
つくられたものでない、大きな自然のなかの、
土のやわらかさや風のかおり、遮るもののない陽の光を、
本当は毎日浴びてほしい。

そんなことをよく思ったけれど、
でもこどもたちはすでになんでもしっているとおもう。
こどもたちが教えてくれたこと、
こどもたちは実は、自然に一番ちかい存在。

ちかくにあるぬいぐるみやおもちゃに命を見出し、
草花や自然そのすべてに
人間とおなじように命や気持ちが宿っているということを
知っているんだなと思った。















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約1年ぶりに家にインターネットがつながって、
約1年ぶりにブログを更新してみることにしました。

あらためて、むかしの自分の記事をみると、
まあよくいろいろと書いていたなあと感心します。
アメリカにいたころ、文章はなんだか適当で、曖昧で
将来への不安な気持ちがとてもでていたと思う。

はたして4年たったいま、
自分はかわっただろうか。
否。
将来への不安はいまだ消えず
意気地のなさは高校生のままだ。
経験だけが無造作に重ねられていった。

経験をつんでいくことは
よいことでもあるけれど、
同時に失っていくものもあると思う。
自分をしったような気になる。
人間を理解したような錯覚をする。
世界はこんなもんだとたかをくくる。
こどもたちの世界では
そんな知ったかぶりは到底必要ないのに。

もうそうなったら青春は終わりを告げて、
反射神経はどんどん老いて、
世界はどんどん狭くなって、
日々にあるちかくの、小さな驚きは
からだからどんどん遠ざかっていく。

文章を毎日書くというのは
とてもよいことだとおもう。
本当はパソコンではなくて、紙に文章を書くのは
もっとよいことのようにおもう。
大切なものは何かを描くことの中に
みつかったりするから。

感性は鈍る。
日々の流れに抗わないかぎり。
発見は終わらない。
にんげんへの好奇心があれば。






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