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疾走 上下巻
重松 清 
2004年

”にんげんは不平等ですがそれもまた公平なことなのです”

人はなぜ人を殺すのか、なぜ自らを殺すのか、なぜ争うのか、なぜ’ひとり’なのか、なぜ誰かと繋がっていたいのか、父親、母親、兄のシュウイチ、加えて「沖」と「浜」に別れた干拓地と広大な水平線の辺境地での人々の争いの中で過ごす15歳のシュウジは壮絶な運命を背負いながら時には生へ向かい、死に呼び戻され、未来へ過去へ取り残されて、孤独か孤高か孤立であるのかを自分自身に問いかけながら疾走してゆく。シュウジは学校にいく変わりに待ちにある教会に通った。そこで神父からもらた聖書を繰り返し読むようになる。こんな場面がある。

”…………聖書には難しい言葉も多かったが、おお、これだというくだりを見つけたらそこに線を引いた。たとえば旧約聖書ヨブ記第十四章のこんなところ・・・。
「木には望みがある
たといきられてもまた芽をだし
その若枝は絶えることがない
たといその根が地の中に老い
その幹が土の中に枯れても
なお水の潤いにあえば芽をふき
若木のように枝をだす
しかし人は死ねば消えうせる
息が絶えれば、どこにおるか
水が湖から消え
川がかれて、かわくように
人は伏して寝、またおきず
天のつきるまで、目覚めず
その眠りから覚まされない
どうぞ、私を影府にかくし
あなたの怒りのやむまで、潜ませ
わたしのために時を定めて
わたしを覚えてください
人がもし死ねば、また生きるでしょうか
わたしはわが服役の諸日の間、
わが開放のくるまで待つでしょう」”(p314-315)

まるで自分にいっているような、自分の代わりに代弁してくれているような感覚をシュウジは聖書の所々で感じるのだった。そして言葉とはなんだろうとおもう。ただの言葉だと思うのに、どうしても聖書の言葉が心から離れない。だんだん喋る相手をなくしたシュウジの相手はいつしか聖書になっていく。あらゆる運命に出会い、翻弄され、そして悩みながらもシュウジは希望と未来を求めて東京へと一人旅だっていく。

SABU監督で今年映画化。

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