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eli eli lema sabachthani?






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エリ・エリ・レマ・サバクタニ
2006年/日本
浅野忠信 中原昌也
監督 青山真治
とても丁寧な映画であり、音への接し方を劇的に変えてくれます。











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short story about walus



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天井のシミを見つめる。目が乾く、徐々にまぶたが重くなる、たくさんの事が頭の中で生まれては消え、また新しい事がぷかぷか浮かんでいく。そのほとんどは無意味な事ばかりで、朝起きた時にはそのどれもがあとかたもなく体のどこにも残らず蒸発してしまうのだ。ウオラスの部屋は朝も夜も光が入らない。むしろ夜の方が明るいぐらいだ。今夜は特に満月の強い光がウオラスの部屋に漏れて来る。天井のシミを見つめる。喉が乾く、徐々に全身がベットに埋もれていく、空想、明日は何をしようかと思ったり、もうどうでもいいや、今日は疲れた、あいつ腹立つな、一日中心臓が痛かったな、俺は今日一日しっかりと生きれたかな。

今日もそれはウオラスを見ている。薄笑いを浮かべて、時にはもの凄く遠くで、時にはウオラスの横に寝そべって、ウオラスを見つめる。何かは、わからない。どうしてか、わからない。それはある日突然ウオラスの前に姿を現した。光の届かない部屋の隅の闇の中に、ある日それ、を見た。それは、何もいわない、ただ、薄ら笑いを浮かべてウオラスのベットで苦しむ姿を凝視している。姿はわからない、見る時はいつもその姿はぼやけてしまって、もすぐ目の前にいてもその姿をどうしても見る事はできなかった。ただ、わかるのだ。ウオラスが弱くなる度にそいつは笑うのだ。そしてきまって今までみたこともないようなダンスを踊りだすのだった。そいつはいつも陰みたいに存在して、でもウオラスを飲み込んでしまえそうな威圧感と闇の深さを持ちながら、そこから異様なエネルギーを放出している、存在しているというより、生きているといったほうが近いのかもしれない。ある日突然現れたそいつは、その後ウオラスから片時も離れた事はない。ウオラスは消え去れすぐに、と何度も呟きながら睨む。くるひもくるひも鋭い眼光で睨みつけ、迫り来る恐怖を押し殺して、目をそらさずに対峙する。速くなる鼓動のせいで、胸が急激に痛む。右手が痺れる。同時に孤独が押し迫って来る。滲んだ汗が目にしみて、視界がぼやける。なんで俺が?なんで俺だけがこんな苦しい思いを?そんな事を口にしても自分が楽になる訳ではなかった。むしろ惨めな気持ちになった。そして同時にあいつも笑った。ウオラスが苦しむとあいつは逆にわらった。ウオラスが笑顔のときはそれはあらわれなかった、けど次第にウオラスは笑う事が出来なくなって、なぜこうなったのか、という事ばかりを考えるようになった。その苦しみや痛みは苦くしょっぱい味がして全身にこびりつくのだ。その匂いは一日中全身から離れる事はなくていつしかその苦しみ自体が生活の中心になっていった。いつまでも続くような錯覚の恐怖と疑問、矛盾と不安がまざって、気がどこかにいってしまいそうな日もあった。ウオラスは自転車に乗るのが好きだった。自転車に乗っている時は嫌な事、心臓の痛みさえも忘れる事ができた。この風にのってどこまでもいけたらいいなあと思いながら何時間でもどこへでも自転車にのって出かけた。一緒に走る風だけは、どんなに苦しいときでもウオラスの味方でいてくれるような気がした。自転車に乗りながら、頬にあたる風を感じる度に、この風は世界のどんな場所からここにたどり着いたのだろうかと考えて、その風が見てきた風景を頭で思い浮かべながら、自分もその場所で風と一緒に空をまってみるのだった。ウオラスにとってその光景は嘘でもあり本当でもあった。現実でもあり非現実でもあった。君にはわからないかもしれないね。でもそんなことはウオラスにとってはどうでもよかった。自分が楽しんでいる世界がある。全てを忘れる事ができる時間がある。それを持っていることだけでウオラスにとっては幸せであり唯一の美しい時代であった。

目をあけるとそこは見たことのない景色が広がっていて、ウオラスは夢の中なのか現実の中なのか一瞬わからなくなった。でもいつも次の瞬間に夢であることにきがつく。ウオラスはよく夢を見た。ほとんど毎日といっていいほど夢を見て、その夢を覚えていることができた。人は必ず夢をみているのだという、ただ覚えていないだけなのだ。ウオラスの夢も断片的でとってつけたようなストーリーの展開にくわえて、場所もころころ変わった。ウオラスが他の人々と唯一違う点と言えば例えば夜中に一度目が覚めてしまってその夢の途中で起きてしまっても、またその夢の続きをみたいと思ったら続きから見る事ができた。それはもう小学生からの癖で、みな誰もが自然にやっていることだと思っていたのに、同級生の中にはウオラスのように器用に夢を操る少年はいなかった。そして20歳になった今でも夢は毎日見る、そして大人になっても見たい夢の続きを見る事ができた。でも今日の夢はとても不思議で、懐かしくて、でもどこかつめたくて、おそろしくて、その夢からさめたときに、なんだかとてもいやな感覚があった。

見た事のない風景にウオラスは立っていた。遠くの方には小さい山々が見えてふもとの方にはいくつかの田んぼがあった。ぱっとすぐ左をみると流れるプールがあって、そこにはたくさんの子供達が楽しそうに泳いでいる。その中にはウオラスの友達もいたような気が、する。季節は夏の終わりだろうか、少し肌寒い感じだった。でもそれはその場所に太陽が昇らないからだったのかもしれないが、その寒さの中ではしゃぎながら泳ぐ子供達を不思議に思いながら、ウオラスは友達と3人、(2人は知らないオトコの子だったがその場所では友人であった)で自転車に乗ってその遠くの景色を見ていた。なぜか3人とも泥だらけで汗だくだった。とても喉が乾いていて気持ちはそわそわしていた。じきにその友人はなにかを話し始めた。忘れてしまったけれどきっとそれは学校のことだったり誰かの悪口をいっていた気がする。どれくらいそこにいただろうか、ふっとまた遠くの景色に目をやった時、小さくそびえ立つ2つの山が煌煌と燃えあがっているのが見えた。火は見る見る内に燃え広がって空は黒い煙に覆われて黒と赤が混ざりあった地獄のような色になった。すぐ傍の畑も煙で全くみえなくなって、その炎はあっというまに高くなって雲まで届いてしまいそうな勢いだ。プールで泳ぐ子供達はびっくりして泣きながら逃げまとい、まわりにいた大人達も急に叫びだし一目散に逃げていく、それはびっくりするぐらいの慌てようでウオラス達は逆にあっけにとられてしまった。3人はなぜか落ち着いていた。まるでその街が燃えてしまうのをわかっていたかのように、冷静にしかししっかりとその光景を見ていた。人々の悲鳴と動揺の中で3人は東の方向から見える大きな炎から目をそらさなかった。そして一人がいくか、といった。何も言わず二人頷いた。不思議と恐くはなかった。ただ、ここにいてはだめだという本能とでもいえるような感情が湧いてきて他の二人も同じ気持ちでこの炎を見ているのだとわかると、とても嬉しくてかけだしたくなった。みな汗だらけで泥だらけだった。とても疲れていて、のどもカラカラだった。けれど3人は何も気にせず東の方向に自転車を走らせた。力つきるまで自転車を走らせた。

夢の中で現れたその不思議な場所にはたくさんの物があってたくさんの人がいた。その夢の中ではずっと夜だったのを覚えている。おそらくその場所で長い時間を過ごしていたはずなのに朝はずっとやってこなかった。年は少し今より若い、17歳ぐらいであったような気がする。まだこころが軽く飛び回っていた頃の、なつかしいような、さみしいようなカラダだった。

屋上からみえる西側の景色の中には緑はまったくなくて、とても冷たい、暗い景色が広がっている。からだを180度回転させて東の方向に目をむけると、太陽が真っ赤に光って今にも地平線に消えようとしているのが見えた。ほほをつたう風はぬるくて少し湿っていて、それが音もなく流れている下の方で、トラックやクラクションの音がとても遠くて、薄紫色にそまった夕方のひろい空に少しだけ響いていた。ビルとビルの隙間から豆粒ぐらいの大きさの人達が列をつくって町の中をいったりきたりするのがみえる。ビルや人の混ざった景色をこの屋上から見上げると、いつもきまってふしぎな気持ちになる。それはこの町の景色がとても綺麗だからなのか、それとも空や雲がとても鮮やかだからなのか……どちらでもないような気がするし、どちらでもいいような気もする。でもよくわからないふわふわしたような気持ちが妙に気分を落ち着かせた。きまった時間に屋上にのぼって、きまった方向のこの遠い景色を眺めることが日課になった。ここは同じ目線の中に誰もいない場所、であり自分もまた大きなものの中にいる一つの“景色”であることを確認できる場所でもあった。その場所にいると、いろんなあらゆることに対してとても素直な気持ちになって、いろんなことを許せる一つの“景色”になることができて、いつか誰かとこの景色を見たい、と思った。

大した事ではない。その踏み出した足はそれでもただの一歩だから。どこへいくのでもない。なにがあるわけでもない。ただ、俺とお前がいるだけ。そこにまつわるあらゆる出来事が、まるで世界が現実であるように、錯覚させるのだ。かきつらねた全ての空白は俺自身。ただやみくもに歩くだけで、何も手に入れようとはしていないではないか。そんな日々の中に、俺とお前がいるだけ。お前は陰、お前は闇。俺はお前を大嫌いだが、お前がいないと生きてゆけない。

真実は恐ろしいもの。
さらけだされたもの。
いまだみたことのないもの。














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air in da house




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やっぱり、いつでも時がたつのははやい。みんな感じることだろうけど歳をとるにつれてどんどんはやくなってるような気がする。つい最近、日本に帰ってきて、つい最近一人暮らしを始めて、働き始めて、この前4月だったのにもう7月も中旬だ。まあ、その間色々あったのだろうが色々ありすぎてよくおもいだせない。

最近は茹だるような(油断してたらいつでも気絶できるほどの)暑さがたまらない。この暑さは温暖化現象の兆候なのだろうか。この暑さと湿度の中をスーツでアスファルトとビルしかない街に囲まれて歩くのは、ちょっとした拷問である。でもまあ、そんなことをいっても慣れるしかないので、極力「あつい」とか「だるい」とか言わないようにしたほうが得な気がしています。実際には北極の氷はどんどん溶けていて、地球上の水面も少しづつ上昇しているのだから、なんらかの影響はじょじょにでもでてくるんだろう。

将棋士羽生善治がある番組の中で、「20年間毎日1時間でもひとつの好きな事をできたら、それだけでその人はすごい才能をもってる」といっていたのを見て、うん、そうだなぁと思う。単純なことだけれど、どんなにくだらないこととか、これ絶対役に立たないねとか思っていてもそれを20年続けたらそれは確かにすごいことになりそうだ。同じ日に葉加瀬太郎は「この一度しかない人生をどれだけ楽しむか、ということを一生をかけて真剣に考えなければいけない」といっていて、これも羽生善治の言葉に相通ずる含蓄の深い言葉です。名言はいろんなことが凝縮されていて、イイネ。

どうやって手に入れたのか定かではない曲がマイパソコンの中に入っていて、初めて聞いてみたらこれがとても良い。で、その日にとても有名人であることを知ってあっ、やっぱりねなんて思ったりして得意気にさせてくれた、趙 静(zhao jing)という中国のチェロ奏者。この人とてもいいのでチェロが好きな人は一度聞いてください。チェロの独奏なんだけれど、一人で弾いているのに三人ぐらいで弾いているように聞こえます。めちゃくちゃウマくて、カンジョウ的。

フランス電子音楽のバンド「AIR(エール)」のホームページのPLAYというカテゴリー
に音を使ったゲームが10個ぐらいあって、それがとても面白いので、時間がある人は(ヘッドフォンで聞きながら)見てみてください(下URL)。とてもシンプルだけど少しだけ幸福になれそうななれなさそうな。

http://www.intairnet.org/





















朝の5時なのでネマス。

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the flowing behind us


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そうか、なんだかそわそわしたような気持ちになる空は、前にどこかでみたことがあるのかもしれない。その色もカタチもその時の空とまったく同じなのに、とても遠い時間のように感じるのだ。そういった色彩は、本当は夕方が一番すごくて、この色がどこからともなく自然からうまれていると思うと、ときより恐ろしさににた感覚をおぼえる。

かなりの時間がたった場所にいってみると、自分だけが年をとっていって、まわりは全然かわってないみたいだ。それはどこかに置き去りにしておいた過去を今、手に取ってさわっているようだった。目に映る色はどれも鮮やかで、なつかしくて、絶対的にそこにあるものだけれど、なんだか曖昧でもあった。ひとつの遠い言葉がいつまでも残っている。それはいつまでも消えることなくこの場所と離れずにいる。そしてひとつの遠い言葉は深いところでみんなと繋がっていて、決して表にあらわれることはない。

明らかに大きな渦みたいな流れの中に僕達はいて、それは時折たしかなカタチをもって、とてもはやいスピードでサーッと通り抜ける。なんのことなのかわからないまま、みんなは何かを感じている。明らかに大きな渦みたいな流れの中に僕達はいる。








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岡本太郎記念館


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ドイツVSアルゼンチンの試合は、ドイツで視聴率90%という数字をたたきだしたという。ボールをひとつの四角い箱にいれるというスポーツに、人類はこんなにも熱狂できるのだから、人間は基本的には情熱的だ。ただ、いつもやりすぎてしまうみたいで、昨日は53人が大暴れで逮捕された。

イングランドのサッカーが好きだ。いつだっただろうか、W杯が始まる前、ニュースでイングランドの試合を見た時にえらくしびれたのをおぼえてる。なんというか、クールでスマートだ。中田が以前テレビで語っていた「簡単な事を簡単にやる」ということができてる。この簡単な事を簡単にできている時のプレーはどの国のチームであってもそれはとても綺麗で、はやい。俗に言われる芸術的ゴールだ。その時のイングランドの試合を見て、なんだかW杯で優勝できそうだ・・と思った。

実は、30人で賭けをしている。2006年ワールドカップドイツ大会の優勝チームはどこなのか。上記のとおり、僕はイングランドに賭けた。120%素人の感で、というかあの時見たニュースの映像のみで。そして大会が始まって、イングランドは(順当に?)決勝リーグに勝ち上がって、強豪ポルトガルとの対決と相成った。真剣で攻撃的なすごい試合だった。18歳で20億もの移籍金を動かすポルトガル代表クリスティアーノロナウドに、今年33歳になるチームの中心者フィーゴを擁するポルトガルに対して、ベッカム・クラウチ・ルーニー・ジェラード等を率いるタレントチームイングランドの対決は組織力とディフェンス勝負の試合だった。ルーニーの一発退場とベッカムの交代があったにも関わらず、イングランドはよくPK戦まで引き延ばした。結果的にPK戦はポルトガルの圧勝に終わったが、最後までベッカムのオトコ泣きが忘れられなかった。

ドイツ戦にしろイングランド戦にしろ、こんな本気で真剣なサッカーは絶対にワールドカップでしか見ることができない。その熱だけが、魅力的だった。しかしイングランドは、負けてしまった。そしてブラジルも、負けてしまった。残ったのはドイツ・イタリア・フランス・ポルトガル。準決勝(7月4日)は決勝よりも面白くなる。

ちょっと前、表参道駅から徒歩8分のところにある岡本太郎記念館を訪れた。2年前に岡本太郎の著作「自分の中に毒を持て」を読んだ時に身震いがした。本のあとに作品を見たのだけれど、彼の生涯と動揺にその文章はどこまでも情熱的で生々しかった。あまりにも感動してしまって、誰かと共有したくて、とある名古屋の友達にその本をあげてしまったので今は見返すことはできないけれど、今でもよくおもいだすのは、「自分の目の前に二つの選択肢があった時に、私はいつも困難なほうの道を選ぶ」という太郎の台詞の部分だ。あえて、自分を危険な方向にもっていくことで、”ゴリゴリ”生きていけるという。生の実感と死の恐怖の狭間で生きてこそ、生命が躍動して“ゴリゴリ”いきていける、と。そんな発想すらなくて、当時は大変にびっくりしたが、更に驚いたのは、その言葉を太郎は太郎の一生で見事に体現してみせたということだった。

岡本太郎記念館にはその彼の作品がたくさんおいてある。当時のアトリエもある(写真中央)。全ての先入観を取り払って、パッと彼の作品の前にたった時、感じるのは熱とチカラ、生命力、自由、孤独、全身全霊、無防備、無条件、そして、爆発。ただ、それはとても遠いところにある彼の感覚。3年後の太郎への感覚はきっともっと違うものになっているはずだし、もっと近くで感じられるようになっているべきだ。2004年に海外で発見された岡本太郎の「明日の神話」という壁画が修復され、近々に発表される。










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rain is calm



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Julie Doiron

少々の間、ごぶさたしておりました。みなさんは日々いかがお過ごしでしたでしょうか。ここ2週間ほど文章を書く時間がとれなくて、更新があいてしまいました。少し時間が空いたときでも、とてもパソコンをひらいて文章を書くという気持ちにはなれなかった。というのも勿論疲れてしまっているというのもありますが、その日に思いついたことやその日の出来事は、その日に書き記しておかないとすぐに忘れてしまって、すこしたってから思い出そうとしても中々思い出せないものです。

気がつけば、仕事を始めてもうすぐ2ヶ月が経とうとしています。はやいような気もするし、もう半年以上働いているような気もするのは、おそらく朝6時半におきて、夜の12時に帰宅する生活のせいでしょう。ただそれは別に単調な生活というものでもなくて、むしろ自分にとっては簡単な生活というものでもないのです。毎日新しいことへの遭遇と、情報の渦の中に放り込まれているような環境。ただ、仕事というのはとても地味で地道な作業の積み重ねで始めて成り立つ事、そして一人で生活していくということの難しさをあらためて知って、小さいながらもある責任をもって世の中の仕組みにはいっていく、仕組みをまわしていくということを”体験”しています。

人間というものはいやはや凄いもので、順応力があります。働き始めは毎朝6時半におきるなんてことは絶対無理だ、というかいやだと思っていましたが、これが不思議とできるようになっていく。当たり前のことなのかもしれないけれど、僕にとってはとても驚くべきある種の成長でもあります。予想以上に、楽しく働けています。それは、仕事の内容なんかよりも、周りで一緒に働く人々がなにより重要かなという感じがします。たくさんあるグループの中に、無差別に配属されたとしたら、僕はとても良い環境にいけたのではないかな。純粋にどの人も尊敬できているし、妥協せずに熱く生きている人達ばかりだなぁと感じるからです。ただ、やはり日本人は働き過ぎです。それは素晴らしいことでもある変わりに、同時に何かをなくしているようでもったいない気もします。しかし理想とは反対に、7月からは更に忙しくなります。これはほとんどシャレにならない状態になるでしょう。

現在はとくに月曜日から金曜日までがとてつもなくはやい。でもその分金曜日から日曜日までがとても有意義なものになります。働いている人のほとんどはそうでしょうが、いくら疲れていても土曜日ははやく起きたい。日曜日もはやくおきたい。どんなに時間がなくても時間への思いひとつで、生活は一変する。そういったメリハリが新鮮だったりします。

でもそういったなかでも確かに確認できたことは、音楽と映画を嫌いにならなかったこと。音と映像から離れなかったこと。いや、むしろ求める気持ちはどんどん強くなったこと。映画監督の黒沢清は人はその中に何種類かの自分自身を持っているといいます。仕事場での自分、一人での自分、家族といる時の自分、友達といる自分。どれをもって自分とするのかは、とても曖昧だし、わからない。でもそれはごく自然なことだと思うのです。げんに、音を欲して、例えば演奏している自分は、あきらかに他の自分とは違うと感じています。

映画「スクラップヘブン」の中でこんな台詞があります。
「もっと人々に想像力があったらさ、世の中はもっとよくなると思うんだよ。」

この台詞はいったい何を意味してるんだろうって長い間ずっと考えていました。ある種この世は想像力で成り立っているところがあります。いろんな人々のいろんな想像力を使って、生活が簡素化されて便利になったり、これでもかと試行錯誤し面白い事を生み出して文化を作る。でもこの台詞はそういう想像力とは別の想像力を指してるようなニュアンスがある。それは一体なんだろう。少し前に、友人の間で小さないざこざがありました。それはとても些細なことが原因であったのに、お互いの怒りがどんどん大きくなってとても大事になってしまったのです。その時に、パッとこの台詞が頭に出てきました。そう、単純にこれをしてしまったら、この後どうなるんだろうとか、もしかしたら、自分の意見は100%正しいのではないかもしれないとか、こうすればお互いに気持ちよく生活できるんじゃないかとか、そんなことを少しでも思えたなら、状況は一気にかわったりします。それはとても小さなことだけれど、大きなことなのです。そのいざこざも、少しの思いやりだったり、相手の立場にたって考えたりということがなかった。

最近、ぜんぜんレビューを書いていなかったので、今日はジュリードワロン(写真上)のアルバム「Will You Still Love Me?」を紹介。カナダ出身のシンガーソングライターで1990年代から作曲を開始。彼女の曲は驚くほどの静寂だ。彼女の声とギターのみで構成された曲ばかりで、そのほとんどが空白だらけの曲。この曲をかけるたびに、時間がとまってしまうように感じて、なぜだかはわからないけれど、その空白がそうさせているような気もする。ギターと声と空白、空白=無音がもうひとつの楽器のように使われている気がしてならない。そこに張りつめた、凝縮された彼女の感情が爆発している。ほとんど空気のような見えないものでこの人の曲は支配されている。そして何度聞いてもはじめて聞いたような新鮮な体験がそこにはいつもある。







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Yesterday was dramatic Today is OK


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松本人志という人は、本当に’稀有’という言葉がよく似合う。彼の書籍やDVDなどは数知れないが、 その中でも特筆すべきものは、彼が単独で始めたコント集Visualbumというシリーズ。板尾・今田・東 野などのメンバーを集めて、約10分程度のコントを12~3本集めた「完成」という4枚組のDVDがある。このコントをみると、なんでこの人は今まで映画をとってこなかったんだろうかと思う。未曾有の面白さの中に、かならず哀愁がある。極上に下品でも、そこにはかならず高級感がある。そういったパラドックスの数々がとてつもないインパクトに変わってそのとてつもない世界観が癖になってしまうのが、なんとも心地よい感じがするのだ。表現力の高さといってしまえば、それまでだけれども、あえて言い換えるなら、物の見方が違う(=超個性)であって、どこまでも’稀有’な才能なんだなぁと惚れ惚れして しまう。何年か前に終了してしまった「一人ごっつ」。あらゆるお題に対して、とにかくコメントしてゆく,とにかく面白いことをいうというシンプルな内容で、瞬発力と発想力とあとリズムが要求されるこの企画のDVDは、すべての作品があるひとつの普遍性に裏付けられている。それは彼自身が言う「8割は他人の身になって考え、あとの2割はしらん」という考え方。だからどんなに下品でも、人を皮肉った辛口なコメントもすべて愛情みたいな思いやりが見え隠れする。それは(すべての企画についていえるのだが)エンディングに近づくと、いつも哀愁に変化して現れてくる。憎めなくなる。 彼の作品がよくシュールとかマニアックであるとかいわれるのは、彼が感じる生活の中の違和感とか、人の汚いところとかを服飾せずに表現しているからである。直接的嘲笑。その人間描写やユーモアは、あまりにも添加物が加えられていないので、はじめは戸惑う。それが、あぁなるほどごもっとも、そのままだ、と感じるようになる。その‘感覚シフトチェンジ‘を可能にさせる。世界のすみっこに追いやられてしまうようなもの、誰も見ていないようなところ、人間の鈍感な部分に敏感なだけだ。そして、その感覚はとても鋭敏であり、稀有でありうる。

ブログは中国にも浸透し始めている。今年中には6000万人、来年には1億人を超す。広告の種類もそれに比例して増える。ありとあらゆる手段と場所を用いて、購買意欲を高めるために、企業は試行錯誤の錬金術を競い合ってる。日本では子供まわりの事件が多発して、ジャワ島では大地震で犠牲者が4600人を超えた。ドイツW杯に伴ったマーケティング戦略が世界中で飛び交い、テレビはロナウジーニュの特集ばかりだ。ドイツはサッカーの興奮と同時にテロの脅威にもさらされている。小泉首相の任期が終了間近になり、堀江元社長はいまだに自分の事しか考えられず、北朝鮮拉致問題はいつになったら解決の糸口が見えてくるのか検討もつかない。中南米では内戦は絶えず、携帯電話などのテクノロジーは止まることをゆるされずに絶えず変化し、ブラウン管テレビもそのうち姿を消すだろう。イチローは連日複数安打、打率.327で驚異的な集中力を見せれば、松井は骨折してしまい、またそのせいで、NY行きのツアー客が激減。野球選手の骨折が旅行業界に大きく影響するのだ。

こんな今の世界の中で僕といえば例えば、157円のおにぎりを買って小銭を出そうと財布に手をいれ、わしづかみでつかんだお金がちょうど157円であったり、朝、反対側から走ってくるバスの行き先のところに、「疾風」と書いてあって、一体どこへゆこうというのだ・・と思ったり、朝、コーヒーを買ってすこし立ち止まっていると、小さなそれはそれは小さなおじさんが、「今日、天気どうだ?」と話かけてきて、天気どうだ?ってどういう意味だ意味わからんと思いつつも「うーん、ちょっと曇ってるね」というと、「あちゃ、そうか。でもな俺はもう疲れちゃったのよん。」といって去っていったり。日経新聞とったはいいが、全然読む時間がなくて、まとめて日曜日に読んでいたり、かさを2回も電車の中に忘れてしまったり、ipodを落として、そしたら真っ二つにわれて、ぎゃっと思って急いでくっつけたらなんと奇跡的にガチャンとはまり、しかもちゃんと聞けるようになったり、やすいネクタイを買って後悔したり、ずっと見たかった映画「疾走」があまりよくないくせに適当に選んだ「鳶がクルリと」が面白くってへこんだり、外食の味に飽きたり、つけめんのうまさを知ったり、だんだんビールが心からおいしいと思えるようになってきたり、結構やばいぐらい打たれ弱いことに気づいたり、性格が正反対な人達と友達になりやすいこと、週末に雨が降ると最近はなんだかいやな気分になること、プッチンプリンから杏仁豆腐へ移行しはじめていること、今の季節はけむしが多いこと、渋谷の街は相当汚いということ、東京は電気を使いすぎてるということ、ガス代が高いこと、持ってるクツがほとんどボロボロだということ、人より水分を多くとっていたこと、今、涼風の初夏。Tシャツのシーズン。
















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freemarket



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「樹の海」という映画。霊峰富士のふもとに広がる、広大な緑の海。青木ヶ原樹海と呼ばれる溶岩流と原生林からなる森を舞台に4つのエピソードが交錯しながら展開していく映画であります。なんだかわかりやすいようでわかりにくくて、良いのか悪いのか、映画的なのかテレビ的なのか?がごちゃまぜで、でもただ一つ言えるのは萩原聖人が、とてもいいということ。この人は「狂気的」な役がとてもしっくりくる。「CURE」という映画での犯人役は完全に彼のはまり役だったし、冷静な外見の中に荒々しいなにかをもっているような役だとばっちりだ。映画全体を見ると、なんだか妙なところが現実的で、少し滅入ってしまうのだけれども、中盤から妙な感覚(なつかしいような親近感を抱かせるような感覚)を憶えて、それがとても不思議な後味。「同じ月を見ている」という映画。深作健太監督、窪塚洋介。映画としては、あまり楽しくなかったのだけれども、山本太郎と、映画の中で使われた日本画家の早川剛という人の「炎」という作品がとてもすばらしい。あっ、あと岸田今日子。

日曜日に友人達と中目黒のとある公園でフリーマーケットに。なぜだか、中学生時代を思いだしたりして、新鮮であった。木陰で休憩していると、目の前を自転車に乗りながら犬の散歩をしているキムタクがサーッと目の前を通って、おおーやったーみれたーとなり、ついでに僕の服もなんだかんだで売れてゆき、天気もよくて、そこらじゅうではしゃぐ子供達もかわいくて、かわいくて。集まったみんなのお金は、ユネスコへ。




 

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weekday to weekend

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(左から)
 ZazenboysIII
 STEPPING STONES THE Self Remixed Best-soundscapes-
 STEPPING STONES THE Self Remixed Best-lyricism-

 4月の終わりにZAZENBOYS、一昨日にDJ KRUSHを見てきました。両ライブともに予想以上の観客数で体力勝負でしたが、とてもよかった。ライブは温度とか熱気とか感情とかが入り乱れてる空気にまじって、生でダイレクトに”音の振動”が伝わる。でも誰もがその振動を感じられるわけではなくて、音を放っている者と、同等のテンションと集中力がないと感じられない、演者もリスナーも能動的に聞くことで始めてコミュニケーションが成立する気がします。なんとなく感じたのは、平日使っている細胞と音楽でゆれる細胞が明らかに違うこと。音楽は僕達が思っているより実はもっともっと刺激的で、濃密で、神秘的なんじゃないかと、良いライブを見る度に感じて、その不思議さにのめりこんでいきます。音楽は本当に楽しい、そしてそれはとても人間的な行為のように思います。

  




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howfarisittoherspotlight0516



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3月に作った曲、「how far is it to her」の為の映像をアメリカにいる友人M氏に依頼していて、それが先日、日本に届きました。スローで単調な楽曲に合わせるような色彩のフローで始まり、光があるものを破壊してゆくようなイメージへと流れてゆく映像で、僕自身が想像していたものとは違う、僕自身が持つ曲へのイメージとは違う、もの。それは新鮮であり、大変な驚きであったのだけれども、彼のシンメトリー(左右相称)を用いた表現方法に深く共感をするのです。乱雑なものが、対称になると、寒気のするような美しさを生む事がある、と昔から思っていて、それを見事に今回の6分の映像の中で具現化しているのではないかと思います。今回の作品「how far is it to her」以外に、彼が監督をした自主制作映画「Spotlight0516」(二段目右二)もあるので、興味のある方は是非ご連絡を。









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lotus


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森。背丈程のたけのこ、梅の木、はす。アルファー波、マイナスイオン。
荘厳、静寂、草木の匂い、風、太陽光、こもれびと陰。





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rice planting

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田植え、苗代で育てた稲の苗を水田に移し植えること。うえつけ。昔は広い水田をすべて手で植えていたというから驚きです。昔は田植えの時期の時に手伝いにくる女性のことを早苗と読んでいて、もの凄いテクニックで植えていったみたいで、田植え歌なんかを唄いながらリズミカルに仕事をしていたのです。今は、ヤンマーのマシーンがあるのでガッガッとできるけど、それでも朝の8時から4時ぐらいまで頑張ってやっと終わるぐらい、大変で奥の深い作業である。身体がとても疲れても、心は意外とリフレッシュできて、農耕民族っぷりを自覚できたのでした。






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scrap heaven




現実の生活に埋もれていると、徐徐に感性というか表現欲みたいなものが薄れてゆくのを感じてきて、これはいかん、と思い、ある日平日にも関わらずTSUTAYAにゆき、映画を二本も借りてしまい、なぜか怒濤の集中力で朝まで見てしまい、一時間寝て出社という自虐的行為にでました。「亀は意外と速く泳ぐ」と「スクラップヘブン」という映画。でも実はそこで、映画が大好きだということを再確認したわけで、なんというのだろう、ときめきだろうか、ワクワクだろうか、あっ、「胸躍る」。この言葉がぴったりのようだ。映画って、どんな映画もミステリアスで刺激的なんだなと思ったし、一度離れてみると、それがどれだけ自分にとって大好きで重要なのかってのがわかる。映画の世界と現実の世界での一番の相違点は、流れてる時間の速さ、それと主人公の感受性の鋭さ。

少し前に友人に誘われて、渋谷のUPLINKという小さな映画館にいって、コーポレーションという映画を見た。企業とは一体なんだ、をテーマにした150分の長編ドキュメントで、内容もさることながら、その個人営業のようなこじんまりとした作りがとても良い。少し適当な映画館という感じで、大きさもバラバラなイスとか、小さめのスクリーンとか。それとパンフレットがたくさんあるのも良い。見たいものがまた増えてしまってきりがないけれど、「ゲルマニウムの夜」とか「ゆれる」なんかは絶対に見にいこうと思う。

音楽は間違いなく潤滑油になっていて、しかもそれは、かなり限定されたものでなくてはならなくて、それ以外の場所にある音楽は僕の場合雑音になってしまう。久しぶりにライブに行く。DJ KRUSHという人のライブ。アメリカにいる時にも、何度か見る機会があって、それはそれは素晴らしいDJなのだけれども、やはりアメリカとちがって、チケットがちょっと高いね。せせこましく、毎月のやりくりを考えてしまうので、あぁ、この出費でかいぞ、と一旦止まるも、それをもろともせずにぶち破る音楽というチカラ。






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ppl meet ppl

テストがあったり、配属が決まって絶叫したり、
プレゼンテーションの準備におわれたり、
飲み会の羅列であったり、週末の早さであったりが、
5年間の学生生活でみについたザ・堕落な身体に
ビシバシ飛びかかってきて、浮遊している感じ。こんな勢いで
こられたら、時空を飛び越えてきっともう、すぐ夏だなあ。

世界中のいろんなところにいる友達はみな頑張っているだろうか。
ずっと一緒にいた友達でも、今は皆違うものを見て、違う事を感じて、
違うものを目指して、それぞれがそれぞれに生きている。そして、時たま
会ってそれぞれの世界と感情を共有することができるというのはすごいことだ。
たまに、ふっと思い出す人、それってなんだか不思議である。
とくにきっかけもないのにペロッと頭の片隅に現れて、またしばらく
身を隠している。次思い出した時はまた全く同じ感覚で思い出す。
振り返ると、そのほとんどは、出会いだ。




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